橋本裕の日記
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春先になると、決まって口ずさみたくなる歌がある。有名な歌なので、日本人ならだれでも知っているだろう。
春の野にかすみたなびきうら悲し この夕影に鶯鳴くも (巻19−4290)
わが宿のいささ群竹ふく風の 音のかそけきこの夕べかも (巻19−4291)
うらうらに照れる春日に雲雀あがり こころ悲しも独りし思へば (巻19−4292)
これは西暦753年、大伴家持が36歳のときの歌だ。万葉集の詞書きに、家持は「和歌でも作らないと、この悲しみは払いきれない」と書いている。家持は何がそんなに悲しかったのだろう。
家持は29歳の時に、越中の守、つまり今の富山県の国司になって奈良の京を離れた。そして、34歳の時まで、5年あまりをこの雪深い北陸で暮らしていた。そして、都に帰ってきた翌年の3月、この歌を作っている。
大伴家といえば、父の旅人が大納言であったように、天皇家につかえる由緒ある名門だ。しかし、旅人は家持が14歳の時死んでおり、長男の家持は若くして父の跡を継いだ。しかし、当時の政治状況は大伴家に対してかなり厳しいものがあった。
大化改新で功績をあげた中臣鎌足の息子の藤原不比等や、そのまた息子たちの一族がのしあがり、権勢をほこるようになっていた。だから家持は京に帰ってきても、自分の居場所が定まらない淋しさがあっただろう。
あるいはそれ以上に、家持の心を占めていたのは、すでにない父や、弟の書持とのなつかしい思い出だろう。11歳の時死別した母の思い出も、久しぶりに味わう故郷の春の景色の中に浮かび上がっていたかも知れない。
吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに 心むせつつ涙し流る (巻3−453)
これは730年、家持の父・旅人が太宰府から奈良に帰ってきたときにの歌だ。旅人は妻と一緒に太宰府に旅立ったが、そこで妻を亡くした。旅人が奈良の家に帰って眺めた梅は、亡き妻が植えたものだった。妻がいないので、花を一緒に眺めることができない。その悲しみが、旅人にこの歌を作らせた。
家持の死んだ母が植えた梅の木は、成人した家持の目の前にあったかもしれない。そして、家持は父・旅人の歌を、その悲しみとともに思い浮かべただろう。家持の春の歌の背後にただよう哀感は、こうしたところにも根があるのかもしれない。
いずれにせよ、この三首は、万葉集の4500首あまりの歌の中でも、もっともよく人々に愛された歌だろう。雲雀があがり、霞がたなびく春先のうららかな情景が誰の目にもうかんでくる。そればかりではない。そうした叙景をとおして、家持の繊細な心のしらべが、私たちの心に伝わってくる。
朝床に聞けばはるけし射水川 朝漕ぎしつつ唄う舟人 (巻19−4150)
さかのぼること、3年前の3月2日、家持は越中の宿の朝床で、近くの射水川を漕いでいく舟人の唄に耳を澄ましていた。家持は川を漕いでいく舟人に自分を重ねている。そして、ひとり静かに、はるかな漂泊の思いをかみしめている。
もののふの八十(やそ)をとめらがくみまがう 寺井の上のかたかごの花 (巻19−4143)
これも、同じ頃に越中でつくった一首だ。近所のお寺の井戸に、村の娘達がやってきて賑やかに水をくんでいる。そのかたわらに咲きこぼれるかたくりの花。ただそれだけの歌だが、余情が感じられて美しい。
あるいは家持は寺井の近くに乱れ咲くかたくりの様子から、水を汲みに来ておしゃべりをしている少女達の生き生きとした姿や声を連想したのかもしれない。少女達が去って、かたくりの花だけが早春の光りの中にゆれている。単なる属目の歌ではなく、そうした静寂の中で、家持の想像が働いて歌われた歌だと考えると、味わいがさらに深くなる。
万葉集の歌と言えば、どちらかと言えば民謡調で、人前で朗々と歌い上げる情熱的なものが多い。そうした中で、家持の歌は少し趣が違っている。こころのかそけき調べにひとり静かに耳を澄ませるといった、孤独で内省的なものが出ている。農村的というより、都会的な感性を感じさせる。
家持の歌は万葉集のなかに400首以上ある。全体の1割以上の数だ。それらの歌を通して、家持は詩的で繊細な内面世界を自らの中に築きあげていった。そして、家持の発見したこうした雅やかなこころの旋律は、現代人である私たちのなかにも、たしかに生きている。
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