橋本裕の日記
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2005年02月14日(月) 人間の尊厳

 人間は「そういうふうにつくられている」だけではなく、「なぜ、そう作られているのか」を問うことができる存在である。私たちは死すべき存在だが、そのことを知っているし、なぜ死ななければならないのかも知っている。

<人間は一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である>(パスカル)

 こうしたことが人間に可能になったのは「言語」の恩恵である。私たちはさらに「文字」を発明することによって心を奥深いものにし、「考える」という能力を磨いて、「自由」の領域を拡大した。ガリレオは「天文対話」の中でこう書いている。

<あらゆる驚異的な発明をしのぐのは、場所や時間の隔たりがどれほどあっても、深い考えをどんな人にも伝えられる方法を見つけることを夢見た人間の心の雄大さでしょう。インドにいる人と話をすることや、まだ生まれていない、千年も万年もあとにならないと生まれてこない人に話しかけることを、しかも一枚の紙に20の文字をさまざまに組み合わせるだけでこれほどたやすくする方法を発明したことです>

 私は400年も前に書かれたこのガリレオの言葉を、日本のというイタリアから遠く離れた土地で読むことができる。そしてガリレオの言葉がどれほど深い真実であるかを実感する。

 人間が人間になったのは、「言語」を通してである。それはまた私たちに「精神」や「たましい」と呼ばれる「心の奥行きと広がり」をもたらした。これによって、わたしたちは世界がいかにあるかを知り、また自らの存在についても多くを知ることになった。

 ガリレオは言語や文字を人間が発明したものだと考えていた。しかし、当時の多くの人々はそうは考えていなかった。こうしたものはすべて神から与えられてものだと考えていたのである。そしてこのような考え方は、今もまだ神を信じる多くの人々によって支持されている。

 ローマ教会が「進化論」をたんなる仮説以上のものと認めたのは、20世紀も押し迫った1996年のことである。教皇ヨハネ・パウロ二世は「真理は真理と矛盾しえない」という声明のなかで、人間が猿から進化したことを暗に認めはしたが、しかし、それでも人間の霊魂は「神によって直接つくられた」という従来の主張は譲らなかった。

<人間の体が先在する生命体から生じるとしても、霊魂は神によって直接つくられるのです。したがって、進化理論を鼓舞する哲学にもとづいて、霊が生命体の力から生じる、あるいは生命体の単なる随伴現象であると考える進化の諸学説は、人間に関する真実とあいいいれないのです。それらは人間の尊厳に基盤をもたせることもできません>

 キリスト教は、人間の肉体は滅びても、霊魂は滅びないと考えている。これは肉体が滅びれば意識も失われると考える現代科学の一般的見解とちがっている。ローマ教会は20世紀に入って地動説を認め、進化論の一部を認めた。しかし、死後の霊魂の不在を認めることはできなかった。今後もこれを認めることはないだろう。なぜなら、これを認めることは、キリスト教の信仰を捨てることに等しいからだ。

 私は言語を創造し、文字を創造した人間の歴史に、おおいに威厳を感じる。ローマ教会が守りたいのは、「人間の尊厳」ではなく、彼等が信じる「神の尊厳」である。私たちが学校で教えるべきは「神の尊厳」だろうか。それとも「人間の尊厳」だろうか。


橋本裕 |MAILHomePage

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