橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2005年02月13日(日) 雪山に想う

 昨日、木曽川の堤防を車で走っていたら、遠くの雪山がきれいに見えた。御嶽山や伊吹山など、荘厳で美しく、見ていてあきないものがある。「きれいだね」と助手席の妻にいうと、妻もうなずいていた。

 雪山讃歌という歌があるが、雪山に崇高な美を感じるのは、多くの人が共通感覚としてもっている感情だろう。こうした感情は、氷河時代を生き抜き、何万年にわたって様々な土地を旅してきた人類の歴史の中でつくられてきたものだ。

 雪山に対する感情だけではなく、人間の喜怒哀楽の感情はすべて、こうした進化の歴史の中で原型が作られてきた。私たちはこの原型の中で、各人の遺伝環境や人生の多様性に応じて様々に肉付けされた感情を体験することになる。

 感情だけではない。私たちはものを認識したり、思考するときも、およそその原型は生得のものとして与えられている。リンゴが赤く見えるのは、私たちの心にそれを赤と認識するシステムがあるからである。そして、このシステムの基本部分は先天的なものであり、全人類に共有されている。

 私たち人間は目が二つあり、口がひとつ、そして指が10本あるが、それはまさに私たちの体が「そのようにできている」からだ。これと同様のことが、私たちの思考や感情というメンタルな分野でも成り立っている。

 しかし、私たちはなにも受け身に生きているわけではない。私たちはその進化の過程で、「言語」を発明し、これを用いて、さらに感情や思考を高度化することに成功した。「言語」によって高度化された思考や感情のシステムは、私たちにものごとを自己流に考えたり感じたりする「自由」を与えてくれる。

 そして私たちはこの「自由」によって、私たちを「そのようにさせている」システムそのものの存在に気づく。私たちは「どういうふうにできているか」を理解するだけではなく、「なぜ、そういうふうにできているのか」を問うことさえもできる。

 科学技術が発展するにしたがい、人間は生得的である遺伝子さえも作り替える自由を手にした。私たちの「自由」はこのようにして、進化の歴史の中で確実に拡大してきた。しかし、こうして獲得された「自由」が、私たちを本当に幸せにしているか疑問である。

 人間はこれまで長い間、原始的な感覚や原始的な思考の中で生きてきた。そしてそうした感覚や思考を自然と感じ、そのなかで強力な快感を味わうようにできていた。そうしたプリミティブな体系が、私たちが発展させてきた文明の中でいま次第に失われようとしている。

 雪山を見ていて、私と妻が感じた感情はそうしたプリミティブな感情だった。しかし、こうした感情がいつまで人間を支配し続けるかわからない。これにかわって人間が「自由」の名の下に発展させようとしているものがどんなものになるか、私は残り少ない人生のなかで、注意深く見届けたいと思っている。

 よもぎつむ人は知らずや山白し  裕


橋本裕 |MAILHomePage

My追加