橋本裕の日記
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2005年02月11日(金) 衆生所遊楽

 少し前、「なぜ、人を殺してはいけないのか」ということがよく話題になり、そうした題名の本が出版されたりした。私も日記で何度かこの話題を取り上げた。そして私が得た結論は、「人を殺していけないのではなく、人間は本性上、人を殺すことができない存在だ」ということだった。

<先日、友人とビールを飲んだとき、彼にも助力を仰いで、二人で考えてみることにしました。そして、二人の結論は、「人間は人を殺していけない」のではなく、そもそも「人間は人を殺すことが出来ない」ということでした。

 もちろん人間も必要に追い込まれれば、人を殺すことがあります。たとえば私も強盗に刃物で命をねらわれたら、その刃物を奪って、場合によっては彼を殺すかも知れません。あるいは戦士として戦場にかり出されれば、やむをえず殺すこともあるでしょう。

 しかしそうした特殊な場合を除けば、人を殺そうとはしないし、人を殺すことなど、どうしてもできそうもないのです。そしてそれが人間というものではないでしょうか。もし、何の理由もなく平然と人が殺せるのならば、彼はもはや人間ではなく、人間の形をした、全く別の何者かということになります>(「人生Q&A」より)

 高校生の頃、「人は何が正しいのかどうして認識できるのか」という問題について考え、ややノイローゼ気味になったことがある。そのとき、カントの「実践理性批判」の次の言葉に出会って、とても安心したものだった。

「二つのものが、それについてたえず頻繁に考えれば考えるほど、ますます新たに称賛と畏怖の念をもって心を満たす。星の輝く天空と、内なる道徳律である」

 人間が真実を認識できるのも、容易に悪を行えないのも、わたしたちが「そういうふうにできている」からである。それでは、なぜ、そういうふうにできているのか。それは、生物の長い進化の過程で、そういうふうにつくられてきたからである。

「進化」というと、「適者生存」だとか「弱肉強食」だとか、「競争」の側面が強調されがちだが、これは現象論に過ぎない。進化がなしとげたのは、「競争体制」を創り上げることではなく、「協調体制」を創り上げることである。

 これは生物の進化のみならず、人間社会の進化にもあてはまる。社会ダーウィニズムは生物世界を生存競争としてとらえ、これを私たちの人間社会にまで適用したが、私は生物社会を協調関係としてとらえ、人間社会もまた協調関係を発展させる方向に発展してきたと捉えるわけだ。

 人生とは戦いの場ではない。それは人々が協調しあい、束の間恵まれたこの貴重な生を楽しむ場所である。こう考えて、こう信じることができれば、心がとてもおだやかになる。私は多くの人がこうした認識に到達し、おきな安心を得て、人生から多くの喜びを引き出してほしいと思っている。そのときこそ、法華経に説かれた「衆生所遊楽」の美しい世界が身近になることだろう。


橋本裕 |MAILHomePage

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