橋本裕の日記
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| 2005年02月05日(土) |
「白い石板」を生んだ生命 |
国家主義にも良質のものと悪質のものがあると書いたが、私は「進化論」にも良質のものと悪質のものがあると思っている。進化論は人類を含めすべての生物は長い時間の中でさまざまに変異し、そのなかで環境に適応したものが生き残ることで、今日みられる姿になって生存していると説いている。
ダーウィン(1809〜1882)の「自然選択・適者生存」の進化論を、私はおおむね正しいと考えている。こうした進化論が学校で教えられることに何の異存もないし、むしろ進んで教えられるべきだと思っている。つまり、私が言うところの良質の進化論である。
これにたいして、私が悪質の進化論だと考えるのはどのようなものか。それは<人類を含めすべての生物は長い時間の中で生存競争を戦い抜いて進化してきた。現在残っているのは、そうして競争に勝った生物である。そしてこれからも強い者がいきのこるだろう>と説くものだ。
良質の進化論を「適者生存説」と呼ぶなら、悪質の進化論はさしずめ「強者生存説」とでも呼ぶべきものだろう。去年の参議院選挙で、民主党は「強い日本を創ろう」という選挙ポスターを全国に張り出したが、さしずめこの「強い○○を創ろう」というのがこの手の進化論だと考えればよい。
「強者生存説」のどこが気に入らないか。それは「適者」を「強者」と割り切ることだ。そしてここから割り出されるのは、世界は競争的であり、この競争に勝たなければ私たちはサバイバルできないという何とも物騒で殺伐とした脅迫的な世界観である。
また、こうした「強者生存説」を唱える人は、人間の本性は攻撃的であり、競争的であると考える。そして利己的で暴力的であり、その性質は根本的に悪なので、これを教育や権力によって統制しなければならないと考える。つまり考え方がどんどん保守的になっていくわけだ。歴史的に言えばこれはホップス ( 1588〜1679 ) が「リバイアサン」で展開した考え方であり、現在でもアメリカのネオコンが主導する「新保守主義」がこの考え方をとっている。
これにたいして、ルソーは「性善説」をとった。人の心はほんらい自由で善良なものだが、社会のなかで生きるうちにどんどん悪くなった。だから、この世に不自由や悪行がはびこっているのは人間が創りだした社会に問題があるという考え方である。
人間の本性が悪いのか、社会に問題があるのか、保守主義と進歩主義の違いはここにある。こうした対立はホップスやルソーの時代からあるが、やがてダーウインの進化論がこうした論争に大きな影響を及ぼすようになった。
ダーウインの進化論は、マルクスが絶賛したことからも分かるように、本来は「進歩派」にとって強力な援軍となるものだった。神様によってこの世界が創られたのだとすると、これを変えることは神を冒涜することにも繋がる。悪いのは社会ではなく、人間の本性だとすれば、社会制度はそのままにして、ただ人々は教会に通って、賛美歌を歌い、自分の罪を感じ入り、悔い改める努力をするだけでよい。
ジャン・ジャック・ ルソー(1712〜1778)に先んじて、ホッブスを批判した進歩派の大御所がジョン・ロック(1632〜1704)である。彼も人間の本性が悪であるとは考えなかった。しかし、ルソーのように善であるとも考えなかった。ロックは人間の心は本来善でも悪でもなく、「白い石板」のようなものだという。
ロックが重視したのは、「経験」である。経験次第で、人間はよくも悪くもなるわけで、あらかじめ人間の本性が悪だとか善だとかいうことはできない。そして人間の経験の質は、その人間が生活をしている社会のあり方に大きくかかわっている。だから人間によき経験を与えるような社会をつくらなければならない。
この場合、人間は本来的に悪だとは限らないのだから、何も強権的な社会をつくる必要はない。むしろ教育制度や福祉制度をととのえ、政治的にもっと自由で民主的な社会をつくることで、人々はそうした社会にふさわしい市民の徳性をうることができるだろう。つまり、社会が人間を育て、人間が社会をそだてるという進歩的な考え方である。これはホップスよりもルソーに近い考え方である。
人間の本性は善でも悪でもなく、ロックのいうように「白い石板」のようなものかどうか、疑問の余地がないではない、しかし、こうしたロックの先進的思想が、人類に新しい時代をもたらした。イギリスで名誉革命が成功し、民主的な議会制度が生まれ、フランスでも「自由」「平等」「博愛」を掲げる革命政権が誕生した。そしてアメリカで独立戦争が戦われた。
「種の創造」をテーマとするダーウインの「適者生存説」はロックの進歩的政治思想と矛盾するものではない。しかし、遺伝ということを重視する立場に立つと、そこに保守主義の復活する余地が生まれてくる。とくに、ロックの「白い石板」という思想が、その主な攻撃目標になる。
人間を含むあらゆる生物は遺伝子の情報によって基本設計ができている。脳も構造もまた遺伝子の産物であり、人間の心はこの脳の活動と切り離せない。つまり、人間の心はあらかじめ遺伝子によって設計された物質的な条件によって枠が与えられているわけだ。
これはたしかにその通りである。生まれながら遺伝子に障害を持つ人がいて、その中には精神的障害をもつ人もいる。そうした人の中には、先天的に人格障害をもち、犯罪者の素質を持っている人もいる。
しかし、このことから遺伝子が人間の心を支配しているというのは行き過ぎだろう。遺伝子が支配しているのは、おもに生物のハードウエアである。石板にもいろいろな形や性質のものがあり、そこに文字や絵を書くための道具もいろいろとあるだろうが、基本的にそこに何を書くか、その内容について枠を提供しているのはそのソフトウエアである。
たとえば、私たちがものを書くとき、便箋にかくか、原稿用紙に書くかという問題がある。鉛筆で書くかボールペンで書くかということもある。パソコンを使って書くか、手書きにするかという問題がある。こうした手段の選択がその内容に微妙に影響をあたえることはあるだろう。
しかし、それはやはりハードウエアであり、道具の問題である。それよりも、彼が日本語で書くのか、英語で書くのか、またそれ以外の言語をつかうのか、そうしたことの方が大きいだろう。さらに、もっと本質的なことががある。それは彼がいったい何を書くのかということである。
つまり、問題は内容であり、その内容を規定するのはハードウエアよりむしろソフトウエアであり、それは基本的にその人の人生のあり方であり、経験の質によっている。その人の暮らしている社会の歴史や文化が経験に反映され、またその人の生物学的な条件や生活環境も経験に反映される。このようにして人は年輪をくわえるとともに、その人の心の世界は、いよいよ豊かで味わいの深いものになっていく。
私の家の居間には様々な生き物が棲んでいる。たとえば今にはリリオと呼ばれるマルチーズの雄犬とウズラのハルコが放し飼いになっている。以前はそこにモルモットまでいた。しかし、狼の末裔だといわれるわが家の愛犬君は決してウズラやモルモットを襲わない。
ウズラのハルコは愛犬君のふさふさした毛が大好きで、そこに潜り込んで卵をうもうとする。そのとき、愛犬君は迷惑そうな顔をして立ち上がる。そのあとをウズラが追いかける。はたから見ていると、まるでウズラが犬に求愛しているようでほほえましい。
聞くところによると、動物園のライオンは檻の中に入ってきた子猫を襲わないそうである。また、動物園で買われているゴリラは異性に発情しても、交尾はできないという。集団の中で小さい頃から学習して、はじめて性交もできるし、子育てもできる。
こうした事例は、私の空想のなかでロックが発見した「白い石板」の存在を次第に大きくする。そのはじまりは進化の歴史の中で、わずかな白いかけらに過ぎなかった。それが、すこしずつ成長し、人類はとうとうその存在に気付いた。そしてこれに「自由」という名前を与えた。
「白い石板」は進化の過程で創られ、我々にもたらされたものである。そしてこれを我々に届けたのは遺伝子たちである。「白い石板」もまた遺伝子の産物であることには違いない。しかし、その存在が遺伝子の支配を離れて、生命の新しい未来へと繋がっていることも事実である。
それがどんな未来か。それを決めるのはもはや遺伝子ではない。私たちの一人一人の意志であり決断である。「白い石板」を持つということは、未来の世代に対して、そうした責任を負うということである。これはかなり勇気のいることだ。
「白い石板」の思想もまた良質なものと悪質なものがある。人間に自由をもたらした「白い石板」は使い方によっては、人間の思想改造と洗脳の道具にもなる。「自由」は両刃の剣であり、使いかたを間違えば、おそろしい終末へと我々を導くだろう。
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