橋本裕の日記
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戦争が終わってまだ間もない頃、私が生まれる数年前に、福井で大きな地震があって数千人の人が死んだ。私の母も倒壊した建物の下敷きになり、火の手が迫るなかで危機一髪で助け出されたのだという。
私が小学生の頃、たしか夏休みだったと思うが、福井で地震があった。そのとき、隣の金魚屋のおじさんが、パンツ一枚で私の家の中にとびこんできた。そして、私と並んで寝ていた弟を抱きかかえると、「ゆたかちゃんも、こい」と、私に声を掛けて往来に飛び出して行った。
寝ぼけまなこの私は、何が起こったのかわからなかったが、隣のおじさんのあとについて玄関先へでた。そのあとのことは記憶にない。しかし、この出来事はいまもありありと私の心に残っている。
私はこの経験から何を学んだのか。地震の恐ろしさだろうか。たしかにそれもある。しかし、実はもっと大切なことを学んでいた。それは「自分は多くの人たちに守られて生きている」ということである。
金魚屋のおじさんは、金魚の行商に出ていて、ほとんど家にいなかった。だから、私にとってこのおじさんはたまに顔を合わせるだけのほとんど馴染みのない人だった。そんな人が、血相を変えてパンツ一枚で飛び込んできてくれてことが、とてもうれしかったのである。
「世の中から戦争はなくならない」という人がいる。なぜなら、戦争をすることが人間の本性だからだという。そして「利己的な遺伝子説」をつかって、こうした主張を正当化しようとする人もいる。
たしかに人間をふくめすべての生物は遺伝子の産物だが、生き方や思想まで遺伝子に支配されているわけではない。人間は言葉を持っている。文化や文明をもち、もっと自由に主体的に生きていく自由をもっている。人間は戦争をする自由ももっているが、戦争をしないで平和に生きていく自由ももっている。
それでも「人間はしょせん動物と同じだ」という人がいる。そしてこの世は食いつ食われつの弱肉強食の世界であることはかわりがないという。人間はたしかに言語をもち、高度な文明を発達させたが、人間の本性はかわっていない。だから、文明が高度化した分だけ、人間の人間に対する殺傷能力もたかまり、殺戮は悲惨なものになった。
たしかに、20世紀に世界で起こったことを考えれば、「人間はしょせん動物と同じだ」という考え方はまだ点数が甘すぎるかも知れない。「人間は動物以下である」というべきかも知れない。なぜなら動物は無用な殺生はしない。人間のように憎しみや快楽から人を殺したりもしないからだ。
人間を含めすべての生物は、自己保存の能力と欲望をもっている。しかし、よく考えてみれば、自己保存は自己保存だけで完結しない。なぜなら、全ての生命は他者に依存し、他者との関係の中でしか生きていけないからだ。
したがって、自己保存は必然的に他者保存にならざるをえない。つまり個々の生命体は他者保存を通じて自己保存を図るしか生き延びる方法がないのだ。私が生命の世界が共生的であると主張するのも、こうした事実に基づいている。
すべての生物は他者に依存しながら、共生的にしか生きてはいけない。これはとても簡単な真理である。そして実際に生命はこの原理によって生きている。人間もまた利己的であるためには利他的であらざるをえないのである。
社会ダーウィニズムはこうした事実から目を背けている。それは一つの抽象であるが、このゆたかな人生のありさまを考えるとき、それはとてもまずしい抽象である。しかし、社会が荒廃してくると、この貧しい抽象があたかも唯一の真理のような顔をして、人々を支配するようになる。そして、「世の中から戦争はなくならない」という人がふえてくるわけだ。
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