橋本裕の日記
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私は「社会ダーウィニズム」に対する砦として、4つのものを考えている。そのうちにの一つである良質の文化・芸術について昨日書いた。今日は二番目を紹介しよう。それは宗教である。
晩年のトルストイは芸術や文化に絶望し、宗教に最後の拠り所をもとめた。現代でも「生存競争」に疲れた多くの人々が宗教に慰安と救いを求めている。私も青年時代に同様な思いで宗教に接したことがあるので、この気持はよくわかる。
宗教の中でもとくに「仏教」は、「社会ダーウィニズム」に対して有効な砦になるのではないだろうか。それはまさに仏教が「原始的社会ダーウィニズム」に対する批判として生まれてきたものだからだ。このことはその教義をみてみればよくわかる。
仏教(法華経)では私たちの心は「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」という6種の「迷いの世界」を彷徨していると説いている。この世界を支配しているのは「煩悩」と「打算」である。それにさまざまな縁が働いて、私たちのサバイバル人生がいとなまれている。
そこでは憎しみが憎しみをうみ、争いが争いをうむ。たとえ幸運に恵まれて、他者との競争に勝利し、人生における輝かしい成功を手中に収めても、それはたまゆらのものでしかない。富を得た者はその富によって支配され、苦しむことになる。
こうした人生はつまらない。もっと本当の人生があるはずではないか。そう考えたのが釈尊だった。そしてどうしたら「煩悩」と「打算」に支配されたこの「迷いの世界」を解脱することができるのか考えたのである。
釈尊が得た結論は、「世界と自己に対する正しい認識をもち、正しい行いをすること」がすべてだということだった。「正しい認識」とは、世の中のものは持ちつ持たれつ、相互に依存して存在しているということである。そしてこの関係をよくするためには、われわれは「煩悩」や「打算」ばかりに囚われて、その奴隷になっていてはいけないということだった。
私たちは実体のないものを実体だと思いこんで執着し、こうした悪しき観念や幻想に囚われて、しかもその囚われていることさえ知らないまま、悩み悲しみ、他者に支配され、主体性を失ってあくせくと生きている。正しい認識と行いを積むことで、心身がこうした悪しき因縁から解脱すれば、私たちは偏見や幻想から解放されて、主体的に、すこやかに生きることができる。
釈尊はこうした方向性をもって人生を生きていかなければならないと考えた。そうすれば、私たちは少しずつ「迷いの世界」から抜け出して、「声聞」「縁覚」「菩薩」「仏」という4つの「さとりの世界」に入っていくことができる。
声聞・縁覚の世界は「知の世界」だと言ってよい。煩悩に汚染された打算的な知ではなく、真理をもとめる純粋で明るい愛知(フィロソフィー)の世界である。そこにはいかなる権威や偏見もなく、自立的で、自由な思考が生き生きと呼吸している。それはまさに美しい「叡智」の世界である。 そこでは煩悩は昇華されて、そのエネルギーは心身を清々しく充たし、私たちは煩悩という自我の洞窟をでて、自由で広々とした世界へ歩みを進めることになる。現代的に表現すれば、欲望と打算で充たされた「競争の世界」から、愛と叡智でみたされた「共生の世界」へ入ることになるわけだ。これが「菩薩」と「仏」のすむ理想世界である。
仏教はすべての存在がその根底に「仏性」をもっており、基本的にこの世界を共生的な「仏の世界」だと考えている。そして世の中をこれ以上住み難くしないために、おのおのが「正しい認識と行い」に基づく生活を心がけようと呼びかけている。私はこうした思想こそ今の時代に一番必要とされているのではないかと思っている。
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