橋本裕の日記
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斎藤貴男さんの「安心のファシズム」(岩波新書)によると、殺人事件による死亡者は20年前の84年には1000人だが、現在は600人台だそうだ。
にもかかわらず「犯罪白書」で犯罪ふえていると主張するのは、すべての被害届を認知件数にくわえるようにという警視庁通達が2000年4月に出されて、統計の取り方がかわったからだという。これで20001年から飛躍的に「犯罪がふえた」わけだ。こうした統計のトリックに騙されないようにしなければならない。
杉田敦・法政大学教授は、「警察が主導的に陰謀をしかけているというよりも、むしろマスコミなどが、犯罪増加というイメージをふりまき、一般の人々もそれに同調し、後追い的に警察が動いている部分はないでしょうか」と述べている。
現在街に凄い勢いで監視カメラがふえている。これについてもその効果に疑問をもつ人がいる。斎藤貴雄さんも「天下の往来は、これでは警察の私道とかわらない」と書いている。人権無視の監視社会がすぐそこまでしのびよってきている。
日本で発生している殺人事件の9割が顔見知りによる犯行で、親族による犯行が約5割にのぼるそうだ。私たちが殺されるとしたら、家族による可能性が半分もあるということだから、赤の他人による強盗殺人も怖いが、それより怖いのは知人であり、もっと怖いのが家族だということになる。
妻にとって一番恐ろしいのは夫で、夫にとって一番怖いのが妻である。子供にとって、決してみしらぬおじさんやおにいちゃんではなくて、実は一番の脅威は両親なのだ。とくに母親が父親よりも4倍も脅威だという数字が出ている。
マスコミの多くは「犯罪白書」の主張をまともにうけて、警察に取り締まりを強化するようもとめている。自治体は監視カメラを設置できる条例をつくりだした。2003年3月で、新宿駅、池袋駅周辺にある監視カメラの数はすでに700台にもなっているという。
私たちもこれを当然のように受け入れ、戸締まりや警戒を怠らないように心がけているが、殺人事件のほとんどが顔見知りだとなると、対応も考えなければならない。監視によって犯罪を防止しようとすれば、家庭の中にまで監視カメラを持ち込まざるをえない。夫婦の寝室が警察の監視員によってモニターされる時代がくるかもしれない。
実際、9.11事件以来アメリカは「愛国法」を成立させ、息の詰まる監視と密告の横行する社会になっている。マスコミが人々の恐怖と不安を増幅し、国家権力の庇護のもとに安全をもとめようとする風潮がはびこっているという。
殺人事件は、日本で平均して毎日4件ほど起こっているが、40件以上起こっているアメリカとは比較にならない。家族が怖いといっても、それは比較の問題で、私たちが自分の家族に殺される確率は0.1パーセント未満だ。1000人に1人いるかいないかというレベルだから、神経質になって家族をうたがいの目でみるのはやめよう。
実は、他人や知人・家族よりもっと恐れなければならない存在がある。それは「自分自身」である。この数年間、失業率に比例するように自殺者の数は3万人をこえている。
一日あたり、85人以上の人が自殺しているわけで、これは交通事故死の3倍、他殺と比べると20倍以上の数字だ。私たちは他者に殺されることよりも自分自身の手に掛かって死ぬ確率が何十倍も高い。一番怖いのは他ならぬ「自分自身」ということになる。
人間以外で、用心した方がよいのは「病気」を除けば、次は「車」ということになるが、もう一つあげれば、それは「浴槽」だ。2001年に溺死した人は5802人もいる。毎日16人以上が溺死しており、そのほとんどが入浴中の不慮の出来事である。溺死者が殺人事件の死者の4倍もあるという現実をまずは重く受け止めるべきだろう。
溺死者の割合は他国と比べて日本が圧倒的に高く、おなじ島国のイギリスの10倍もある。これは日本人がお風呂好きのせいで、とくに高齢者の溺死が多いからだ。私もよく風呂で居眠りするので注意したいと思っている。
「戦後教育悪玉論」にも最大限注意しよう。これを支持する人々は個人の尊厳や人権の大切さに思いを致してほしい。この日本を息くるしい「監視社会」にしないために、何が大切であるか、社会や国家の本質から考えてみる必要がある。
斎藤貴男さんは「安心のファシズム」で、日本をアメリカ帝国に従うプチ帝国と呼び、つぎのように書いている。
<かっての帝国(ローマ、イギリスなど)は、帝国が帝国であるために必要な国民の統合、総動員体制を、国内における福祉国家化で完成させようとした。「社会帝国主義」などとも呼ばれる所以である。
新自由主義に貫かれた現代の帝国に、「福祉」の二文字は存在しない。代わりに採られた国民統合のための方法論は、ハイテクノロジーという凶器を得て、むしろむき出しの暴力性を帯びた。キーワードは「恐怖」、そして「安心」である>
統計を見る限り、赤の他人よりも、怖いのが「家族」、そしてもっと怖いのが「自分」ということになるが、じつはもっと怖いのが「国家」なのだ。それも、他国ではなく、自国の政府が一番怖い存在だ。
ハワイ大学のランメルの統計「政府による死」によれば、20世紀の百年間で国家によって殺された人間は、約2億人いるが、そのうちの1億3千万人は自国の軍隊や政府によって殺されているそうだ。ダグラス・ラミスも「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」という本の中で次のように書いている。
<二十世紀ほど暴力によって殺された人間の数が多かった百年間は、人類の歴史にはありません。これは先例のない、まったくの新記録です。そして誰がもっとも多く人を殺しているかというと、個人ではないし、マフィアでもやくざでもない。国家です>
歴史的に見れば、国家権力のこの凶暴性をどうおさえるかということで、個人の尊厳や「基本的人権」を重視した民主主義原理が生み出された。監視されるべきは個人ではなくて、国家である。個人の犯罪に目を向けるべきだが、もっと恐ろしいのは「国家の犯罪」である。とくに第4の権力とも称されるマス・メディアは、この社会認識をしっかり持ってほしい。
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