橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2005年01月05日(水) 神奈備山考

 万葉集を読んでいて不思議に思うことがある。それは当時の壮麗な宮殿や法隆寺などの大寺を詠んだ歌がほとんど見あたらないことだ。今日私たちが奈良を訪れると、そこには当時の文明を誇示し、権力の大きさをものがたる建造物がたくさんある。

 例えば聖武天皇の御代には東大寺の大仏が国家的事業として鋳造された。ところが、万葉集のどこをさがしてみても、この巨大な大仏をまともに詠んだ歌は見当たらない。そもそも仏像を詠んだ歌もほとんどない。

 相思はぬ人を思ふは大寺の
 餓鬼のしりへに額ずくごとし   (巻4−608)

 たまたま見つければ、大寺の餓鬼をうたった他愛もない歌である。万葉集にうたわれているのは、どれもこれもほんとうに小さなことである。たとえば、万葉の人々は、恋人が踏んでいった何でもない小石を拾い上げて、これを宝物だと考える。これが万葉人に見られる際だった感性である。

 彼等は小石に神を感じ、道端の名もない花に無尽蔵な愛情を感じた。妻と旅の途中に見た一本の木や、一緒に植えた花にかけがいのない愛惜の情をそそいだ。他者から見れば何でもないものが、たちまち宝物になる。そうした愛情のマジックを、万葉の数々の歌は見事に示している。

 三輪山も小さな丸い山である。どうしてこんなどこにでもある平凡な山が神山となりえたのだろうか。三輪山に限らず、神奈備山はほとんど小さな山だ。山というよりむしろ丘といった方がいいものもある。

 万葉集に富士山を詠んだ歌は11首ある。たしかに宮廷歌人である山部赤人や高橋虫麻呂が詠んだ歌は有名だが、他の歌は「富士山が煙を吐くように私も燃える心であなたを思っています」というたぐいの歌ばかりで、当時の人々が富士山にどれほど神性を感じていたか疑わしい。山高きがゆえに貴からずというところだろう。

 当時の人々が神性を感じていたのは、もっと身近な山や木や岩だった。たとえば、800メートルあまりしかない筑波山は古くから「神々の住む山」として敬われ、なんと25首も歌われている。当時の人々にとって、富士山はただ高いだけの山だが、筑波山はもっと身近で、生活に密着した山だった。そして人々はそうした多くの恵みを与えてくれる山に、生産のシンボルとしての神性を感じ、愛情を感じたのだ。

 私は三輪山は当時の人々にとって大切な里山であったのではないかと思う。そこは共同性の高い場所で、特別の日しか入れなかった。そしてこの里山の掟を守護する神が三輪大明神だった。そう考えれば、三輪山の神が蛇身をしているのも分かる。蛇は山を守る神であり、同時に水を守り、農耕を支配する神でもあったわけだ。

 筑波嶺(ね)に雪かも降らるいなをかも
 愛しきころが布乾(にぬほ)さるかも  (巻14−3351)

(筑波山が真っ白になっているが、あれは雪だろうか。いや、そうじゃなかもしれない。可愛い娘たちが、さらしの布を乾かしているのかもしれないな)
      
 これは恐らく、山の情景をうたったというより、男たちが女たちを前に掛け合いで歌ったものではないかと言われている。当時の若い男女は特定の日に山に入り、歌を詠みあい、気に入った相手と情を通じ合った。これを歌垣というが、筑波山はとくに歌垣の山として有名である。

 三輪山でも同様のことがおこなわれていたに違いない。神奈備山というのは、このように人々の生活圏に接していた里山だった。そしてその近くに住む人々に生活の糧をもたらし、精神的な恵みを与えてくれる、大いなる自然の象徴だったわけだ。

 私は万葉の時代の終わりを、筑波山信仰の衰退のなかに見ている。天皇を頂点とする律令制国家が成立したとき、日本一高く秀麗な富士山が日本の象徴となって、人々の心の中にそびえ立った。

 どうじに筑波山や三輪山などの神奈備山が神聖をうしない、そこに繰り広げられた歌垣の豊穣な世界がみるまに失われて、古代信仰の香りにみちた万葉のゆたかな世界も、ついにその終焉を迎えたわけだ。

(ここに書いたことは、十数年前、私が仏教大学の国文科に籍を置いていたころ、卒業論文として構想したことだ。残念ながら、卒論は書けず、卒業もできなかったが、おそまきながら、ここに「万葉集入門」として、ようやく完成することができた。念願がはたせてほっとしている。2005年1月4日夜記す)


橋本裕 |MAILHomePage

My追加