橋本裕の日記
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2004年12月25日(土) 分析力と総合力

 日本語の「分かる」という言葉は、「分ける」からきているらしい。「理解」という言葉も、これに似たニュアンスを持っている。愚か者のことを「馬鹿」というが、これも「馬と鹿の区別がつけられない者」という意味である。

 デカルトが「方法序説」で強調したのも、まずは「分けること」の大切さである。「方法序説」で彼は私たちが正しい認識に到達するために守るべき原則を4つの法則にまとめて提出しているが、彼はこの「分析の法則」を、「明証性の原則」の次ぎにあげている。

<明証的に真理であると認めるものでなければ、どんな事柄でも、これを真実として受け入れないこと。換言すれば、注意深く即断と偏見を避けること>(第一原則)

<検討しようとするもろもろの難問のひとつひとつを、できるだけ、またそれらをよりよく解決するために必要なだけ、多数の小部分に分解すること>(第二原則)

 一見複雑にみえる現象も、いくつかの単純な要素に分解することができる。しかし、バラバラにしただけではいけない。分解したあと、もういちど組み立ててみることで、はじめてその全体の構造や仕組みが見えてくる。デカルトはこれを「総合の法則」として三番目に上げている。

<もっとも単純で、もっとも認識しやすいものからはじめて、少しずついわば段階を追ってもっとも複雑なものの認識に至り、また自然的には相互に後先のない事物の間に秩序を仮定しながら、思考を秩序だって導いていくこと>(第三原則)

「分析」によって、全体を基本的で単純な要素にまで分解し、しかる後に、それらの関係を明らかにして、全体像を再構築する。デカルトによって明文化された「分析と総合」の手法は、現代数学や科学の方法の根幹にある思想である。デカルトはさらに、重要なことを注意深く最後に付け加える。

<全般にわたって、自分は何一つ落とさなかったと確信するほど完全な列挙と広範な再検討をすること>(第四原則)

 これは「検証の原則」と呼ばれている。ある理論が真であるか否かは現実によって検証されなければならない。デカルトはこうして、「明証」「分析」「総合」「検証」こそが、「理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法」であると考えたわけだ。

<もし我々が、真実でないものを真実として受け入れることがないようによく慎み、一つの事柄を他の事柄から演繹するのに必要な順序をつねによく守りさえすれば、高遠すぎていつまでたっても到達しないとか、あまりにも深くかくれていて発見できないとかいったような事柄はあるはずがない、と私は考えた>

 これは大変な自信である。しかしこの自信は人間の知性に対する信頼であって、彼自身にたいする過大な自信でもないし、奢りでもない。彼は大変謙虚な人間だった。彼は自分自身についてこう述べている。

<私はいままでに私が学んだわずかばかりのものは、私の知らない事柄にくらべてほとんど無に近いということを知っている。しかし私は学ぶことができるということに対しては絶望はしていない>

 以上は、角川文庫版「方法序説」からの引用である。この本は総ページ数125ページしかない短編だ。私はこれを高校2年生のときに手に入れて読んだ。そしてその単純明快さに驚いたものだ。この本が世界を変えた一冊であることを知ったのは、もう少し経って、大学で物理学や数学を勉強し始めてからである。

 前任校で、出張中の教務主任にかわって講話をしなければならないとき、私は壇上から全校生徒に、「君たちは何か人生の羅針盤を持っていますか」と問いかけた。そして、おもむろに胸ポケットからこの「方法序説」をとりだし、「私にはありますよ。それはこの一冊の本です」と、デカルトを紹介した。なつかしい思い出である。 


橋本裕 |MAILHomePage

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