橋本裕の日記
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2004年10月27日(水) 伊藤博文と日露戦争

 明治の元勲のなかで、伊藤博文ほど仕事をした人間はいない。明治維新のとき倒幕の運動に寄与をしたこともそうだが、明治政府が出来てからの働きがすばらしい。なかでも憲法を作り、政党を作って、立憲政治を軌道に乗せた功績は評価していいだろう。

 伊藤は海外通でもあった。若いときに英国に留学したのを始め、何度もヨーロッパやアメリカを訪れている。西欧の実力を知っていた伊藤は、征韓論を歯切りにして、日本の対外戦争にはつねに慎重な立場だった。

 こうした伊藤の国際協調主義・平和主義は、軍部や国民には弱腰に見えた。どこの国でもそうだが、国民が熱狂的に支持するのは、勇ましい主戦論者である場合が多い。その点、伊藤はそうした英雄としての資質を徹底的に欠いていた。

 日露戦争のときも伊藤はこれに及び腰だった。それも当然なことで、日露両国の国力を比較すれば、ロシアの方が日本の10倍もあった。たとえば当時の国家収入は日本が2億5千万円、ロシアが20億円である。常備兵力は日本が20万人、ロシアが300万人である。この国力差は後に日本がアメリカと戦争したときの状況と似ている。

 ところが、政府や国民の中に主戦論が台頭し、もはや開戦しかない状況になった。1905年(明治34年)2月戦端が開かれると、伊藤はさっそく日本銀行副総裁高橋是清をイギリスとアメリカに派遣して、軍備調達に走らせている。

 高橋は苦労したあげく、最終的に7億円あまりの軍備を調達した。人々は新聞に報道される華々しい戦禍に目を奪われるが、実はこれだけの戦費が調達できたことが、日露戦争の大きな勝因であったことはあまり知られていない。

 伊藤は同時に、腹心の貴族院議員金子堅太郎をアメリカに派遣し、米国大統領ルーズベルトに停戦後の講和斡旋を依頼させている。戦争が長引けば、国力の差で日本は不利になる。戦況を見てロシアと講和し、戦争を終わらせる腹づもりだった。

 開戦後1年6ヶ月を経て、戦況は日本に大きく傾いた。しかし、この間に日本軍の戦死者は4万6千、負傷者16万に達した。費やした戦費は何と19億5千万というとほうもないものだった。もはや日本には、戦争を継続する国力は残されていなかった。

 伊藤はロシアと講和することにして、外相の小村寿太郎を全権大使としてアメリカに送り、かねてのシナリオのとおりルーズベルトの斡旋のもとで、ロシア全権ウィッテと交渉させた。この交渉は日米双方に戦争継続の強硬論があることで困難を極めた。

 こうした中で、明治38年9月、米国のポーツマスにおいて、小村はようやく講和条約をまとめた。韓国を日本の勢力圏と認めること、南満州鉄道の権益や関東州の租借権を日本がロシアから譲り受けること、南樺太を日本領とすることを内容とするものだ。

 ただ日本はロシアから賠償金をとることは出来なかった。そしてこれを不満とする報道が日本で流された。「閣臣元老の責任を問ふ」「遣る瀬なき悲憤・国民黙し得ず」という激烈な表現で、国民の一斉蜂起を暗に促す内容のものさえあった。戦争の実情を知らされておらず、ただ戦勝気分に酔っていた国民は、これを読んで一気に不満を募らせ、各地で爆発した。

 9月5日には講和条約を不服とする群集三万が日比谷公園に集結し、その後、内務大臣官邸を襲撃し、投石、乱入、放火等暴虐の限りを尽くした。このとき、東京市内の7つの警察署と239もの派出所が焼き払われ破壊されたという。

 このとき神戸では湊川神社境内の伊藤博文の銅像が引き倒された。そして、銅像の首、手足を叩き壊され、四、五百名の群集によって数町先まで引きずられたという。群衆の怒りが「軟弱外交」の伊藤に集中したわけだ。伊藤の不人気はこれによって決定的になった。そして、その後も修正されることなく、太平洋戦争を経て、今日まで来ているように思われる。

 どうしてこのようなことになったのか。それは国民の前に真実を明らかにしなかった政府の責任が大きい。日本が日中戦争に突入するのは、これよりわずかに25年後のことである。さらに15年後に、日本はアメリカに敗北している。司馬遼太郎も書いていたが、日比谷公園の暴動から40年間に起こったことを一繋がりの出来事だと考えてみると、歴史の真実がよくわかる。

(参考サイト)
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist2_4_8.htm



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