橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2004年10月24日(日) 陸軍情報官・鈴木庫三の日記

 佐藤克己の近著「言論統制」(中公新書)は、「情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」という副題を持っている。鈴木庫三は極貧の小作人出身でありながら刻苦勉励して陸軍士官学校や早稲田大学の夜間部、東京帝国大学を卒業し、インテリの教育・情報将校として、一世を風靡した。

 彼が書いた「国家総力戦の戦死に告ぐ」(1939年6月)という宣伝パンフレットは、新聞や雑誌が競ってこれを複製して読者に配布したこともあり、「結局1千万パンフレットとなり日本始まって以来の大出版」と本人が日記に書くほど人々に読まれた。そこにはたとえば、こんなことが書かれていた。

<社会の上流に在るもの、富裕にして恵まれたる者、或いは事変の為に多大の利益をあげている企業家及び其の従業員の如きは特に自粛自戒に務むると共に、他の羨望と之に基づく憎悪感を惹き起こさぬ様寧ろ進んで事変の大なる負担を引き受け、率先して実践運動に邁進すること>

 彼は陸軍にあって弁が立ち、著作もよくした。カント哲学を研究して「軍隊倫理学」という倫理学の専門書を書き、大学で教官として講義しただけではなく、陸軍情報官として、菊池寛、丹羽文雄、尾崎士郎、高見順、海音寺潮五郎、石川達三など多くの著名な文人と対等に交わり、雑誌・新聞・演劇を「指導」して、これを「国防国家」のスローガンの旗のもとに参集させた。

 戦時中これだけの活躍をしたので、戦後、彼は叩かれた。陸軍情報官として苛烈な「言論統制」にあたった人物として、石川達三の「風にそよぐ葦」にも佐々木少佐という仮名で登場している。職業柄鈴木少佐をよく知っていた中央公論編集部員・黒田秀俊は「風にそよぐ葦のモデル」でこう書いている。佐藤さんの「言論統制」から孫引きしよう。

<葦沢(中央公論社)社長を前にして、「君のような雑誌社は片端からぶっ潰すぞ」と怒鳴る佐々木少佐は、当時泣く子も黙るといわれた鈴木庫三少佐とみてさしつかえあるまい。「皮膚の浅黒い、頬骨の高い顔で、険悪な目つきをしていた」と書かれている鈴木少佐は、実際には、頬骨の高いというよりも顎の張った、ムッソリーニに似た顔立ちであった。・・・およそ非文化的な、憲兵の下士官あたりによくみうけられるような暗い、険しい感じの軍人であった>

 佐藤さんはこの文章を引いた後、<はたして黒田は「鈴木少佐」を正しく観察していただろうか>と疑問を呈している。実際に鈴木少佐はムッソリーニのような独裁者だったのか。佐藤さんは「言論統制」のなかで、彼の日記を縦横に引用し、これとはいささか違った、知性的で温厚、正義感の強い清潔な人物像を描き出している。

 鈴木庫三は日清戦争が起こった1894年(明治27年)に茨城県真壁郡の農家に6男として生まれている。生まれて3ケ月後、貧乏な農家に養子に出された。小学校の時は成績はクラスで一番、級長だったが、養家には借金しかなく、遠足に出かけるにも着物や小遣いがなく参加できなかったという。

 もちろん、中学進学など夢の世界である。高等小学校を卒業したあと、鈴木庫三は養父母のために小作人として必死で働く。地主と交渉して小作地を増やし、杉山を開墾した。さらに日雇いで土木作業もやり、借金を減らした。そのかたわら、日が暮れると小学校の先生を訪ねて、毎晩10時過ぎまで勉強した。

 彼には「陸軍士官学校」という夢があった。20歳まで必死に農夫として働き、養家の借金をかえしたら、後は養家の実子である弟や妹に家を任せて、そこを受験するつもりだった。そのために、当面の5年間のすべてのを労働と勉学に捧げなければならなかった。そうした彼に周囲がどう見えたか。彼の日記に書かれた回想を紹介しよう。

<彼等(農村の青年団の仲間)には学問など言ふ学の字も頭には宿しておらぬ。暇さえあれば婦女子を誘惑するとか、さもなくば料理店とか遊郭にでも行く考外ない。そうして死に金を使う。金の出所がなくなると、親の米俵でもなんでも無断でかつぎ出して花柳界に捨てる金をこしらへる、実に問題にならぬ奴が多かった。・・・僕は孤立しても志は捨てなかった。青年会に行っても真面目な話ばかりしていたから、堕落な連中にはあまり好かれなんだ>

 16歳の時、養父母に内緒で師範学校を受験した。腕試しのためだった。身体検査、体操試験、算術、国語すべてに合格した。10人に1人の競争率である。中学2,3年でもずいぶん落ちているなかでの健闘だった。口頭試問の段階で落ちたが、これで彼は自信を得た。

 そして、3年後の1913年2月、彼はふたたび養父母に内緒にして、砲兵工科学校に願書を出した。陸軍士官学校に合格するために、ここを経由するしか道がないことに気付いたためだった。彼はここを見事に合格。養家を弟にまかせて、12月1日、東京にある砲兵工学校の門をくぐった。こうして学校で内務班生活が始まった。

<その夜は初めて寝台に毛布を敷いて臥すことになったが、疲れて居ったから馴れぬ床でも直に眠れた。霜の朝は明けた。勇ましい喇叭がなる。・・・それから毎日習得することは何もかも新しい事ばかりで、練兵は毎日午前も午後もあったが、農業に勉励して身体を錬磨して置いた僕には少しも骨の折れる事はなかった>

 こうして彼は、砲兵工学校に学びながら、陸軍士官学校を目差した。しかし、これは想像を絶する大変なことだった。この頃、勤務外のことで、上官から屈辱的な制裁を受けた。そのうえ、「士官候補生願を取り消してしまえ」と言われた。

<軍籍に身を置いてから殴られたのは此の時が初めてである。其の夜、室に帰って見たが残念さは胸に充ちて居た。頭も顔も腫れ上がって居ったのであったが、之が後日僕の為には立派な宝となって酬われた。あのときの無念さが幸福に生まれ変わったのである。

・・憤慨も極度に達した。何ふしても此の暴行に対して復讐を興さねばならぬ。然し夫れには立派な方法がある。文明の方法がある。嗚呼! 士官候補生! 汝は復讐戦の援兵であるぞ。希わくば我を助けよ!>

 こうして、彼はついに陸軍士官学校に合格した。このあと、陸軍大学校受験をめざすが、これは年齢制限のため断念するしかなかった。しかし、彼は軍務のかたわら、早稲田大学に学び、ついで「陸軍員外学生制度」によって3年間東大に派遣された。そこで、「軍隊教育学」を学び、陸軍は始まって以来の本格的な教育将校として、軍隊の教育面の改革に乗り出すことになる。

 彼が特に重視したのは内務班の教育だった。軍隊の綱領には「自覚ナキ外形のノミノ服従ハ何等ノ価値ナキ」とうたわれている。しかし、実際はどうだろうか。私的制裁がおこなわれ、恐怖と不正が充満している。そうした現状をかえなければならないと、鈴木は自らの不条理な軍隊体験に基づいて真剣に考えていたようだ。

<ことに入隊当時の初年兵は、生活状態の一変と、従来地方(世間)に伝説せらる軍隊の悪説とによりて恐怖心を抱くこと甚だしきものなり。故にこれら入隊兵を軍隊生活に導くんには、なし得たる限り緩やかなる方法を取り、漸く軍隊の内容を知るに及んで、速やかなる教育の進歩を計るべきなり>

 これを彼は自ら中隊長として実践している。しかし、彼のこうした考え方は、上層部にはいれられなかった。陸軍大学を卒業していない叩き上げの彼にはどうしょうもない階級の壁がある。その壁をどううち破ればよいのか。そうした軍隊エリートである「天保銭組」への絶望と怒りと苦悩が彼の日記に読みとれる。

<成るべき会議などには出ない様にする。出ても己の意見は包んで吐かない。上官もまた斯様な将校を善良な将校と考える。そして陸軍大学の試験を受けよとか言って、三日も四日も遊ばして勉強させる。然るに正当な気色鮮明な意見でも吐く将校は、悪い将校になる。大学の試験を受けるにしても、便宜などは与えられない。教育や倫理の研究が軍隊教育者に必要などと分かる上官が何人あるであろうか>

<途中二等車の中は今回の演習に参加する将校で満員であったが、一として語るに足り聞くに足る話はない。現代の高等常識からうといのは、実に現代の将校だ。而も自負心が強いから、その己れを知ることが出来ぬ。余は汽車中、倫理哲学等の雑誌を読み続けた。一二の友人にもすすめた。中には熱心に読む人もあるが、多くは分からぬから興味が起こる筈はない>

<上長官にもなって居乍ら、随分人格低劣な人もある。軍人の道徳的覚醒は寧ろ一般国民にも劣る点が少なくない。これは階級的な点にある。食事教養までも階級的であるから、今日の思想に合わない。従って下級者から不平を起こすことになる>

<教養のない天保はかくて暴君振りを発揮して不忠を致すのかな。副官も下士官候補者隊長もあはれなものだ。変態的な頭で統御の道も知らぬものを、何とか閥でどしどし抜擢進級させて国家の為にならぬことをするのは実に困ったものだ>

<資本家の魔手は政治にも新聞にも及んで堕落させて居る。陸軍大将が収賄で法廷に引かれる。前文部大臣が収賄で法廷に引かれる。山梨も小橋も顔の皮を何枚張っているのだろう。国民が皆覚醒して道徳の世界が出現すれば同胞相和して善美の世界が現れることが明瞭なのに何うしてそれが出来ないのだろう>

<特別に財産のある人は別問題であるが、吾人は極度の緊縮生活をせねば生きて行かれぬ状態である。官吏になったが為に親を養ふことも出来ない。理髪すらも任官以来、理髪店でした事がない。冗費などは殆ど一銭もない生活をして居る。小学校の修身では老いたる親を養ふべく教へ、法律上子は親に対し扶養の義務がある。官吏になって十数年真面目に勤務しても、親を養ふ事が出来ない様な待遇をして居るのは政府の誤りだ>

<今日まで常に思案しつつ人生を送ってきた。此の私案がなかったら、生来不遇な余は恐らく今日あることが出来なかったであろう。各所の困難と戦って概ね目的を貫徹して来た。学業も一段落に達して今後特異の方面で陸軍に頭角を現し、国軍の重要なる精神的方面に活動する準備が出来た。然るに四十才といふ声を聞くと前途に一抹の暗雲がある>

 こうした日記から読みとれる鈴木庫三は、「およそ非文化的な、憲兵の下士官あたりによくみうけられるような暗い、険しい感じの軍人」とはかけ離れているのではないだろうか。佐藤さんが「言論統制」の中で、<はたして黒田は「鈴木少佐」を正しく観察していただろうか>と疑問を呈しているのも頷ける。

 少し意外なことだが、陸軍情報将校の彼が重視していたのは、国民を統制することではなく、国民の中に自主的な相互扶助の精神を育てることだった。それをどうして国民教育の中に実践していくか。これを科学的に合理的に、「倫理」という西洋流の思想を根底に据えておこなおうとした。外形的な強制ではだめで、「軍事教練」ではなく、倫理教育が大切だと考えた。このあたりが、彼の真骨頂だった。

 この考えは、日本が占領した地域の教育にも必要だと考えた。恐怖による支配ではなく、自由と公平に基づいた精神教育が重視されなければならない。これが早稲田や東大でカントを学んだ鈴木のバックボーンだった。彼はある雑誌の企画した座談会で「八紘一宇」についても、次のように発言している。

<八紘一宇の精神といふのは、此の大東亜共栄圏の国々の国々の民族に皆所を得させる、安定を与える事である。言葉を換えて言ふと、日本人の物質的な生活水準を上げないようにして、満人なり中国人のレベルをそこまで持って来なければならぬ>

 彼は自らの出自である小作階級に同情的である。そしてその分、富裕な資本家階級に批判的になる。彼が求めたのは、平等ということだった。アメリカや英国のような植民地支配を斥け、平等な社会を実現すること。その為に戦争に勝たねばならないというのが彼の基本的な心情だった。東大在学中の1928年4月24日の日記で、彼はこう書いていた。

<人間が将来の希望を絶たるることは、甚だ苦痛だ。明治初年の小作人は自作人にもなれると思って働いた。然るに経済界の急変は、之を許さぬ事になった。昭和の今日では明治初年からの勤勉なる農夫の経験が、青年壮年の人々に一代如何程働いても自作農にはなれない事を教える。之がため自暴自棄的飲食家が多くなった原因ではないか。近頃、一般社会は勿論、官私立の大学専門学校にまで共産党刈りをやった。毎日新聞は報じて居る。極端なる共産主義も悪いが、極端なる資本主義も悪いのではないか>

 こうした彼の言説を丁寧にたどっていくと、戦後彼にかぶせられた悪評の多くが、単なるフィクションではないかと疑われる。事実、石川達三は「風にそよぐ葦」の中で、彼を佐々木という仮名で登場させたが、その年齢を30歳代のエリート少佐として、十歳以上若く描いている。「風にそよぐ葦」から雑誌社の編集者の言葉を引用しよう。

「社長、口惜しいですね。あんなわからず屋どもが、雑誌文化を支配する気でいやがるんですから。文字通りの軍部独裁ですよ。・・・ある婦人雑誌の連中なんか佐々木少佐に毎月賄賂をおくったりご馳走したりして、原稿はそれこそ広告に至るまで一々あいつに聞きに行って、散々ご機嫌取りをやって紙の配給をふやしてもらっているんだそうです。どうです、一度佐々木少佐を招待してご馳走してやりましょうか。案外そんなやり方で行く方が近道かもしれませんよ」

 現実の鈴木庫三は講演や座談会には喜んで応じたが、饗宴の席には乞われても行かなかった。その最終軍歴が大佐にすぎなかった彼は、決してエリートではなく、エリートが支配する軍隊を批判し、その無教養と横暴を糾弾したために、上層部からにらまれたこともあった。

 彼の目から見れば、商業雑誌の社長も、その商業雑誌に駄文を書いて、暖衣飽食している戦時下の文化人たちも、<事変の為に多大の利益をあげている企業家及び其の従業員の如き>と、そうは変わらなかったのだろう。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加