橋本裕の日記
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| 2004年10月21日(木) |
共感的な生き方のすすめ |
人は競争的な環境に生きていると、そうした姿勢でしか人生を生きられなくなる。たとえば、競争的な人間が幸福を感じるのは、競争に勝ったときだけである。他者をうち負かし、自分が強者であることを実感するとき、そしてそのときに、彼は幸福の絶頂感を味わう。
彼の念頭にあるのは、他者に勝つことだ。彼はそのために学校で勉強し、社会に出てからは、ありったけ頭脳を使い、努力して成功を勝ち取ろうとする。彼が学者になったとしても同じで、論争において勝利を勝ちとり、学説が正しいことを、全力で証明しようとするだろう。
文学者になったとしたら、彼は自分の文学が世の中に評価され、自分の名声が上がることしか念頭にない。そして、そのためにのみ自己の文学的営為を続ける。たとえ彼が俳句を詠んだとしても、その俳句がよくできたかどうかが最大の関心事となる。俳句そのものをたのしむということではない。
競争的な生き方をしている人間にとって、尺度はただひとつしかない。そしてその尺度を彼自身のみならず、他のすべての上にあてはめる。そして、もし彼が結婚して子どもを持てば、当然、自分の子どもにも同じ尺度を押しつけるだろう。人生は戦いの場であり、勝利を収めなければ生きる価値がないと信じ込ませる。
こうした生き方は、人生に対する真実の認識から得られたものではなく、その見かけほど現実的でさえない。実のところ、そうした生き方は幸福に結びつかない。なぜなら、幸福とはそうした虚偽や虚栄の中にではなく、真実の中に存在するからだ。幸福は競争的で排他的な生き方の中にではなく、そうしたものとはまるでかけ離れた共生の世界、すなわち共感的な生き方の中に見出すことができる。
もし彼が本当の学者なら、彼はこの世界の真実を追い求め、その真実に感動するだろう。そして自分の発見した真実を、他者と分かち合おうとするだろう。そのために彼は著作をしたり、講演会を開くかも知れない。その結果、名声を得るかも知れないが、彼にとって名声そのものが活動の目的ではない。
現代のように競争的な価値観が支配的な社会で、こうした共感的な生き方をすることは、それほど容易なことではない。学校や家庭で教えられていることを疑い、そうした尺度に囚われない生き方をすれば、この社会で勝利者となることは難しいと考えられているからだ。
したがって、多くの親たちや教師は、敗者になりたくなければ、そうした価値観を受け入れ、そうした尺度に基づいて行動した方がいいとアドバイスするだろう。しかし、そうした助言にもとづいて競争にあけくれても、彼の前途に待ちかまえているのは、多くの場合、挫折であり、苦い敗北であることの方が多い。
これに対して、ともに生き、お互いに助け合い、喜びも悲しみも分かち合おうとする共感的な人生は、私たちに多くの実りをもたらしてくれる。その実りは、たとえば愛情に満ちた人生の安らぎであり、森羅万象にたいする感謝の心である。
たのしみは朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲けるを見るとき
幕末の歌人、橘曙覧(たちばなあけみ)の歌である。こうした歌をよめば、共感的な人生の消息が、そこはかとなく感じられるのではないだろうか。「天上には星が、地上には花が、そして人間の心には愛がある」と歌ったのはゲーテだ。
競争する心ではなく、共感する心を育てることを、これからの教育の柱にしたいものだ。共感的な人生を生きることによって、私たちの人生はゆたかに耕され、社会は明るい未来への夢をはぐくむ。実のところ、人生と世界の真実を求めるほんとうに誠実な知の営みもまた、ここから始まるのである。
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