橋本裕の日記
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| 2004年10月20日(水) |
共生論の人生論的基礎 |
世の中をホップスのように、「個と個の競争する場」として「競争的」に見るか、ロックのように「個と個が協同する場」として「共生的」に見るか、それによってずいぶんと人生の風景は違ってくるし、その人の生き方も違ってくる。
ところで、そのどちらが正しいのかと問われたら、私の答えはひとまず「そのいずれも正しい」ということになる。シマウマとライオンは、「個体のレベル」で見れば被捕食者と捕食者だが、よりマクロな「自然界のレベル」で見れば、これによってお互いの種の保存がはかられ、自然界に豊かさがもたらされている。
問題はこうした生命現象を「個体」というミクロな視点から競争的みるか、「種」や「自然界」というマクロな視点から共生的に見るかとということだろう。こうした視点の選択は、経済問題や社会問題を考えるときも重要になる。
ともすれば私たちは個人の利害に囚われるが、ときには個人の利害を度外視して、社会の利益を考えることも必要になる。そうすれば、このことが長い目でみれば、個人の利益にもなるからだ。
したがって、社会の利益を考えるということは、個をないがしろにしてよいということではない。ホップスの偉大なところは、社会は個人を基礎とし、その集団的な活動によりつくられるという「市民社会の原理」をはっきりさせたことだ。
すべては「個人」から始まる。そしてこの「個人」の協同のうえに「社会」が成り立ち、その社会によって個人の生存が支えられ、個人的生活が保障される。これがホップスを受けて、ロックが考えた近代的な市民社会学の原理だ。
この理論の弱点は、「自由な個人」という前提を建てたことだろう。というのは、私たちはもともと生物学的にも社会的にも自由ではなく、「個人」でも「市民」でもなからだ。私たちは「遺伝子」によって創られ、「社会」によって創造される。そして長い教育の過程を経て、しだいに自由らしいものを少しずつ手に入れる。
ここで大切なのは、自由とは社会を離れて存在しないという認識だろう。私たちが何よりも自由であることを尊び、自由であることに価値をおくならば、そうした価値を尊ぶ共生的な社会を創らなければならない。そうしたマクロな視点に立ってものを考えることで、まずは自分の人生を変えていくことが大切なのだろう。
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