橋本裕の日記
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クリス・ヘッジスの「戦争の甘い誘惑」(河出書房新社)を読んだ。ピューリツア賞や、人権を追求する著作としてアムネスティの国際賞など多くの賞を獲得した世界的ベストセラーで、去年発売されたとき、新聞などでさかんに紹介された筈だが、私は何故か見落としていた。
最近、この本の存在に気付き、読みはじめた。著者のクリス・ヘッジスはハーバード大学神学部で修士号をとった後、記者になり、1990年からは「ニューヨーク・タイムズ」の従軍記者として、15年間世界の戦場を駆け回っている。
彼が行くのは、湾岸戦争、パレスチナ紛争、ボスニア、コソボ、スーダン、イエメンなど、すべて生と死の隣りあった危険なところばかり。取材を終えるたびに、もう二度と行かないと決意するものの、やはり「戦場の魅力」にはまけてしまうという。戦争はドラッグのようなものだという著者の主張には、体験に裏付けられた真実味が感じられる。
この本には著者自らが戦場で体験した数多くのエピソードが語られている。たとえば、著者はガザ地区の難民キャンプでこんな体験をした。フェンスを挟んだイスラエル側から、突然アラビア語で「出てこい、イヌやろう!オフクロのオマンコやろう! そら、ここへきな、カム、カム」と拡声器が子供たちをからかいはじめ、キャンプの子供たちが石を持ってかけつけると、サイレンサーを着けた銃でねらい打ちをする。
「数々の戦闘の中で、撃たれた子供たちをたくさん目撃してきた。エルサルバドルやグアテマラでは、軍の暗殺隊が子ども達を撃ち殺し、アルジェリアでは、赤ちゃんを抱いた母親が一列に並ばされ虐殺された。サラエボでは狙撃兵が子ども達に照準をあて、道にくずれていくのを冷静に見つめていた。だが、兵士達がネズミのように子ども達を罠にかけ、スポーツ気分で射殺するのを見たのは、今度が初めてだった」
20世紀は戦争の世紀だといわれている。4000万人以上の兵士が殺され、これを上回る一般市民が殺戮された。その合計は1億数千万人及ぶといわれている。著者はこの現実を数十年間従軍記者として身近で見つめ続けてきた。それだけに戦争の非人間性を告発する著者の言葉には重みがあり、人類の文化や文明に対する深い洞察がうかがえる。そうした言葉のいくつかを、ここに引用しておこう。
「戦争がもたらす恍惚感は、強力な感染力のある嗜癖である。戦争とは我々にとって、長年にわたって打ち続けてきたドラッグなのだ。戦争を神話に仕立て上げた者達、つまりドラッグの売人とは、歴史家、戦争特派員、映画製作者、小説家、それに国家であり、彼らはあげて戦争の効用を喧伝するのだ。それは、興奮、エロティシズム、権力、人生における上昇志向、それにグロテスクで暗く奇妙で幻想的な美の世界だ。戦争は文化を支配し、記憶を歪め、言語を堕落させ、戦争をとりまくすべてに感染する」
「戦闘のただなかにいると、日々の生活がいかに浅薄で空虚なものか実感する。日常の会話も放送もくだらないことばかりだ。それに引き替え、戦争こそは魅力の万能薬。決断とか大義とかを意識させてくれるものが戦争だ。日常に意味を見いだせないでいる者達、意欲の失せたガザ地区のパレスチナ難民、フランスで差別される北アフリカ移民、先進地域で安全をむさぼり、怠惰に生きる若者達、彼らは皆、戦争の誘惑には抵抗がない」
「戦争というものは一時的には、日常の頭痛の種や些細な雑事を忘れさせる。敵に対してスクラムを組むことで、孤立感・疎外感という日頃の鬱憤を忘れさせ、隣近所や共同体、国家との、思いがけず暖かい絆を強めた気にさせる。倦怠感に包まれ絶望感に陥っている時、戦争はまさに気晴らしに有効である」
「現代のナショナリズム紛争やナショナリストの蜂起というものは、セルビア人対イスラム教徒であれ、フツ族対ツチ族の戦いであれ、それは宗教戦争ではない。ましてや文化や文明の衝突などではない。さらには、昔から鬱積していた人種的憎悪が爆発したのでもない。それは捏造された戦争である。一般市民の堕落から生じ、恐怖と強欲、パラノイア、それらはもはや収拾がつかない状況である。戦争は、社会の底辺から這い上がったギャングどもによって仕組まれ、彼らが保護すべき身内まで巻き込んで、すべてを恐怖のどん底に突き落とす」
「戦争によって世界は一切が逆転してしまった。必死に働き、わずかずつでも預金し、なんとか年金か給料で生き延びてきた人達は、すべてを失ってしまった。その一方で大借金を抱え返済不能に陥っていた無節操者達が闇市や犯罪で懐を肥やし、欲しいものを奪うためには暴力を振るい、途方もない富と権力を手に入れていった。モラルも解体し、逆転の掟ができあがっていく」
「戦時体制に入ると、まず国家は自国の文化を破壊しようとする。それを破壊し終わってはじめて、敵の文化の抹殺に取りかかるのである。紛争に際しては、真の文化は有害だ。国家が推進する大義によって国家的アイデンテティが確立し、戦争という神話を煽ることで国民を栄光と犠牲とに駆り立てている時、大義の価値、神話の真偽に疑問をさしはさむような輩には、内なる敵というレッテルを貼らなければならない。・・・戦争にある国家は、本物でヒューマンな固有の文化を沈黙させる」
「戦いが正義に基づくと国家が宣言した暁には、国家がでっちあげた神話の正義に従っていればいい。やがてこの神話は崩壊する。その時こそ、国家が推進した行動や、その動機について、疑問を提起するチャンスなのだが、我々には、戦争体験をへて、一種の『真夏の夢』現象が起きてしまっており、一体何事が起きたのかまったく覚えていないという精神状態に陥る」
「戦争の後には、しばしば集団的健忘症に陥ることがある。コソボを失うやセルビア人がミロシェビッチに背を向けたように、人種主義的神話は弾け飛ぶ。しかしそれでは、ナショナリズムのウイルスを撲滅したことにはならない。人種主義の大義の名のもとに行われた狼藉行為が忘れられるか無視されている間も、ナショナリズム神話は社会に寄生して冬眠し、覚醒の時をうかがっている。国家に仕えた少年の冒険物語や、戦死者のために建立した忠魂碑を栄養にしながら力を蓄えていくのだ」
「民族の神話とは平和な時には穏やかで、娯楽産業、学校教育、小説、伝承風歴史小説の題材になったり、モスクでの説教に取りあげられたり、低級な歴史ドラマで扱われる程度で、実際の歴史研究の障害になることもないし、他民族に対して寛容さをひけらかしても構わない。だがいざ戦争となると、民族の神話は集団的健忘症を引き起こすのだ。神話は高貴で偉大な先祖を称え始めるが、そうした先祖など決して存在しなかったのだ。つまり意識的な健忘症である。殆どすべての集団、なかでも国家はこうした神話を持っており、ナショナリストはこれを発火剤として戦闘の火蓋を切る」
「戦犯罪を実際に遂行した者は陰口をたたかれるが、まず罰せられることはない。静かに引退していくだけである。実権を握る諸機関、国家保安機関、軍部、内務省などは、ある程度の証拠の提出は黙認しても、殺人行為を指示した現国家機関の責任にすることだけは断固拒否する。しかし、歴史の記憶を甦らせることは、戦争から立ち直るためには不可欠だ。『権力に対する人間の闘いとは、記憶が抹殺されることへの闘いである』と小説家ミラン・クンデラは述べている」
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