橋本裕の日記
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野中広務は総裁選で小渕をふたたび総裁・首相にしたあと、2000年4月2日、小沢一朗の自由党との連立を解消した。しかし、この直後、小渕が脳梗塞で倒れた。
野中は幹事長の森、政調会長の亀井、参議院会長の村上らと赤坂プリンスホテルで会合し、後継首相に森をすえることにした。そして森の後継として、自らが幹事長になった。しかし森内閣は女性スキャンダルや森自身の失言もあいついで、国民からあいそをつかされた。
支持率が20パーセントを割り込んだ森内閣に、すかさず、民主党などの野党は「内閣不信任案」を出してきた。これに次期首相と目されていた加藤が同調する姿勢を見せたので、大騒ぎになった。いわゆる「加藤の乱」である。野中はこれを力で制圧したが、これでまた自民党・森政権に向ける国民の目は冷ややかになった。
2001年1月にはKSD事件が表面化した。外務省の機密費流用があきらかになり、森の失言が続く中で、自民党や公明党内部から、森退陣をもとめる声が吹きだしてきた。総裁選が前倒しで実施されることになり、後継首相に野中を押す声がいちはやく公明党や保守党から上がった。
党幹事長で、最大派閥の橋本派を握る野中が総裁選に出れば勝利が見込まれた。ところが、野中は「資質のない人間が首相の座についたら日本の不幸だ」とこれを固持した。代わりに派閥会長の橋本龍太郎を担ぎ出した。
その背景には、被差別部落出身という野中の出自がからんでいた。元経企画庁長官で総裁戦に出馬した麻生太郎は河野グループの会合で、「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と言ったという。そうした声は野中にも届いていた。
2001年4月19日から21日にかけて地方の予備選が行われた。そこでまさかの逆転劇がおこった。地方票がなだれをうって小泉純一郎に流れたのだ。橋本は国会議員の本選挙を待たずに敗北宣言を出した。こうして小泉政権が誕生し、1972年(昭和47年)から続いた田中・竹下派主導の政治に終止符がうたれた。
2003年9月の総裁選で野中は小泉打倒に執念を見せたが、派閥の有力者である青木幹雄や村岡兼三が離反して、これも不発におわった。総裁選の11日前に野中は政界からの引退を表明した。野中は日本外国特派員協会で次のように語り、会場を後にしたという。
「もう今の流れは止めようがありません。政治家としての退路を断つことで、せめて現在の政治の状況に警告を発するのが私に残された道だと思います。私はもう生々しく生き残ろうとは思いません。静かに消え去って行こうと思っております」
振り返ってみると、野中の政治家としての原点は京都府にあった。彼は町議から町長、府議員、副知事と、その経歴の大半を地方政治家として歩んでいた。そして、1978年(昭和53年)3月、蜷川知事引退を前にして開かれた京都府議会で、自民党を代表してこんな送別の辞を送っている。
「この議場で時には、今から思うと、横綱に子どもが飛びかかるような光景のようにうつりますけれども、自分では毒舌のように食いかかったことが非常に懐かしい。あるいは時には議場が蜷川教授の教室ではないかと錯覚に陥るような知事の答弁に聞き惚れたこともございます。私は立場を異にはいたしましたけれども、偉大なる政治家の足跡を思い、振り返り、深い敬意を表するものであります」
最後に登壇した蜷川は目を潤ませながら、「野中議員が申されたように、過去を振り替えってみると、すべて美しく、幸せに思うような感慨が胸にこみ上げてまいりました」と語り、野中に深々と頭を下げて本会議場を去ったという。
野中という政治家をどう評価したらよいのだろう。57歳で国会議員になり、被差別部落民の出身でありながら、その弱点を武器にして、剛腕で人に恐れられ、権力の階段を上り詰めた男。しかし、彼は「影の総理」とよばれながら、総理大臣の地位を手にすることはできなかった。
魚住昭さんは「野中広務、差別と権力」のなかで、野中は「『潮目を見る』政治家であって、潮目をつくり出す政治家ではない。利害や思想の異なる集団同士の調停では突出した能力を発揮するが、かっての田中角栄のように大きなスケールで国家の将来を創出する力はない」と述べている。
野中は政策を実現する能力は高かったが、政策を作る能力はそれほどではなかった。政策よりも政略に秀でた人だったといえよう。その意味で彼は、田中角栄の「負の遺産」の相続者であった。
彼が日本の政治をよくしたとは思えない。それでも私は敗北者として去っていく彼に、一抹の同情を覚える。「ごくろうさん」と声をかけたい気がする。それは彼が親の七光りを受けた世襲議員ではなく、私たちと同じ「民草」であり、「民草」のかなしみや苦しみを体と心で知っていた政治家だったからだろう。
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