橋本裕の日記
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2004年10月15日(金) 「加藤の乱」と小泉政権

 野中広務はどこでまちがったのか。私はやはり、「自自公連立」ではないかと思う。とくに仇敵であった小沢一朗と妥協したことが大きな間違いだった。ここから、日本の政治は後ろ向きに進み始め、彼自身の転落が始まった。

 野中が小沢と手を組むことに反対したのは、加藤紘一だった。加藤は橋本政権を幹事長として支えるなかで、野中と密接な関係を築いていた。自民党の中でも穏健派として考え方や感性の近い加藤を、野中は「魂の触れ合う仲」といい、加藤も野中を評価していた。

 加藤が次期総理候補の最右翼と言われたのも、野中の信頼と後ろ盾があったからだ。また、宏池会という有力な派閥の会長であり、党幹事長である加藤との盟友関係は野中自身の権力の源泉でもあった。この二人が組めば、おそらくハト派路線のかなり強力な政権ができたはずである。ところがそうはならなかった。その理由は自自連立である。

 1998年の10月、帝国ホテルの一室で、野中が加藤に「自由党と連立したい」と切り出したとき、加藤は、「それはダメだよ。なぜなら衆院は過半数をこえているし、過半数に足りない参院の運営も、汗を流して政策ごとに野党と協議をしっかりやれば乗り切れるはずだ」と答えている。

 このあたりから、しっくりしていた二人の関係がずれていく。1999年の総裁選で、あえて総裁選に立候補し、野中が立てた小渕に破れている。2000年4月にその小渕が倒れ、森政権ができたが、それでも森の後は加藤総理、野中幹事長というのが、既定路線だった。

 ところが、加藤はその頃、朝日新聞とのインタビューに、「野中さんと私は感性が違う。十三歳上の人にそれを求めるのは無理だ。僕にとっての田中さんは山崎拓です」とはっきり答えている。これは野中への決別宣言だった。

 加藤は森政権とおなじように、自分の政権が談合で作られることに反発したのだった。そして、ついに11月9日、「このまま森政権を続けるのがいいのかどうか。不信任案が提出されたら欠席することも考えています」という爆弾発言が飛び出す。「加藤の乱」の始まりだった。

 このとき世論は加藤を「改革派」の旗手として圧倒的に支持したが、これを野中が全力で潰した。その有様を、当時渦中にいた渡辺喜美衆議院議員は「加藤の乱の顛末」にこう書いている。

<松浪議員の水かけ事件で議事が中断したお粗末極まりない11月21日未明の本会議で、森内閣に対する不信任案が否決された。本会議開会直前に加藤・山崎派が欠席を決めたあげくの結末だった。森政権護持に走る江藤・亀井派を離脱し、不信任案に賛成票を投じようと決めていた私にとっては梯子をはずされた思いだった。

 森擁護派の加藤派・山崎派や無派閥・無所属組への執拗な働きかけは想像を越えていた。ある者には金やポストによる利益供与の甘いささやき、他の者には党除名や対抗馬擁立などの恫喝が行われた。なんとも後味の悪い結果であった>

 加藤の乱で、森派の事務局長として森政権を守り通したのが、かってのYKKの一人だった小泉純一郎だった。「加藤の乱」で加藤は失脚したが、同様に野中も傷ついた。漁夫の利を得たのが小泉だったと言えるだろう。小泉政権は「加藤の乱」の遺産の上に成り立っているからだ。

 小泉首相は先日行われた人事で、意外な人を自民党の幹事長に抜擢した。山崎派の武部勤(たけべつとむ)である。彼は「加藤の乱」では、野党の内閣不信任案に賛成するため、山崎氏が加藤紘一元幹事長とともに本会議場に向かおうとした際、「加藤さん、あんた一人で行け。うちの大将は行かさない」と言い放った男だ。彼は小泉政権への流れを作った功労者の一人である。

 武部は2001年4月の小泉内閣発足時に農相に就任し、BSE(牛海綿状脳症)問題では、「感染源の解明はそんなに大きな問題なのか」などと問題発言し、その行政手腕が疑われ、与野党から辞任を求められたが、小泉首相はこれに応じなかった。そして、今回は幹事長への大抜擢である。これも「加藤の乱」の武勲のたまものだろう。

「加藤の乱」がなくても、野中と決別した加藤に首相の目があったかどうかわからない。しかし、彼を「乱」にまで追いつめたのは野中を司令官とする森・橋本陣営のしめつけがあったからだろう。私は野中幹事長のもとで加藤政権ができていたら、今の日本はもう少し希望の持てたものになっていたのではないかと思っているが、どうだろうか。


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