橋本裕の日記
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2004年10月12日(火) 国家・国旗を法制化した男

 1999年(平成11年)2月28日、広島県立世羅高校の校長・石川敏浩が首を吊って死んだ。自宅には石川校長の、「何が正しいのかわからない」という走り書きの遺書が残されていた。

 石川校長が自殺したのは、卒業式の前日だった。卒業式で「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を求める文部省・県教育委員会と、これに反対する教職員組合や部落同盟との板挟みになって苦しんだあげくの自殺だったとみられた。

 しかし、校長はもとより、日の丸を掲載する気はなかったという。これをキャッチした県教委は、自殺当日の朝、指導主事を校長の自宅に派遣した。校長が納得しないので、次長を派遣することになって、主事がその出迎えに出たすきに、校長は家を抜け出して自殺したらしい。

 当時の新聞にはこうしたことは報じられなかった。校長の日記が公表されたが、「今日、学校へ教育次長がきた。苦しかった」といった県教委に対する不満を述べた部分だけは発表されなかった。そのため世論は県教委よりも、教職員組合や部落解放同盟の方に厳しかった。

 3日前の予算委委員会で、小渕首相は「日の丸、君が代は国旗、国歌であることの認識は確立している。現時点では、政府としては法制化は考えていない」と答弁していた。事件後、小渕は答弁を撤回し、法制化を言明した。

 小渕に答弁を撤回させ、法制化を強行したのは官房長官の野中広務だったという。野中は「老兵は死なず」にこう書いている。魚住昭さんの「野中広務」から孫引きしよう。

<このへんで、意見の対立はあるが、『日の丸』を国旗、『君が代』を国歌として正式に国として認めていいのではないかと私は考えた。そして不毛な政治抗争でこれ以上の犠牲者を出すことはやめようじゃないか、と考えた>

 校長が自殺したのは、県教委が校長の判断を尊重せず、むり強いをしたからである。これを批判しないで、法制化のほうにもっていくのは、論理のすりかえだろう。校長を自殺させないために政治家がすべきことは別にあったはずだ。

 野中広務は反戦・平和を口し、弱者や差別される者に対する同情を寄せてきた。ところが、ハト派とみられていた野中が、タカ派の小沢と協力して、ガイドライン関連3法案、盗聴法、住民基本台帳法案など、いわゆる有事にそなえて国家主権を強化する法案を次々と成立させた。このことについて、野中は後にこんな弁解をしている。

「僕が力を入れてやったのは、国旗・国歌法と男女共同参画社会基本法なんだ。この二つで頭が一杯だった。ガイドラインと住基ネットはもっと慎重にすべきだったと思っている。こちらが余裕がないときに、役所のペースで『ハイ、ハイ』とやられてしまった。それと、ガイドラインなどはあれですよ。小沢一朗と連立を組んでいたから、小沢の要求を呑んだ、という面が大きい。自自連立でしたからね」

 知日派のコロンビア大学教授、ジェラルド・L・カーチスはニューヨークでの講演で、「ここ十年の日本政治を分析すると、自自公連立が近代化の分かれ目で、それ以来、日本の政治は後退してしまった。あれほど残念なことはない」と述べている。

 自自連立を作ったのは野中である。たしかに、寝業師の野中と、立ち技の小沢が組むと大仕事ができる。しかしその仕事の手法や内容が問題だ。これで日本の政治はますます保守化した。そして、その先に、保守本流を自任する森派の躍進がある。将来、私たちは「国家主義」という「悪魔」にひれ伏すことにならなければよいのだが。


橋本裕 |MAILHomePage

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