橋本裕の日記
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2004年10月10日(日) 池田大作の大望

 日本には西洋のような熾烈な宗教戦争はなかった。また、十字軍もなかった。それは仏教の根本の考え方が「空」であり、教義そのものも「空」であるとする立場だからだ。たとえば親鸞は「歎異抄」で弟子の唯円に、「義なきをもって義とす」と語っている。例外がないわけではないが、原理的には宗教戦争が起こり得ない。

 日本古来の宗教である「神道」もまたこれという教義をもたない。その昔は社さえもなく、ただ巨木や岩を「ご神体」としてあがめていた。森羅万象に命が宿り、神が宿ると考えられていた。それは理屈ではなく、生命の実感だった。

 こうした神道と「習合」した仏教は、日本で独特な思想を育んだ。それは「空」のなかにこそ命が宿るという思想である。自己を空しくすること、すなわち「無心」ということが、悟りに至る要諦であり、さとりそのものだとされた。

 しかし、日本の仏教者の中にも変わり種はいる。それが日蓮だった。日蓮は「義」を重んじる人だった。そしてその「義」を政治を通して実現しようとした。日蓮は国が乱れるのは、国に正しい思想が行われず、人々が「義」に背いているからだと考えた。「立正安国論」で次のように書いている。

「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去りし聖人は所を辞して帰りたまはず。是れを以て魔来たり鬼来たり災起こり難起る」

 池田大作が率いる創価学会もまたこの日蓮の思想を受け継いでいる。学会発行の「折状教典」には、「日蓮大聖人の仏法の実践は、王仏冥合の達成である」と書かれている。そして「王仏冥合」については、こう書かれている。

「正しい仏法によって、人間革命された政治家が、仏法の哲理を根本精神として、大慈悲を政治の上に反映させ具体化する時、はじめて理想的な政治が行われ、王仏冥合ととなるのである」

 王仏冥合の達成のために、池田大作は昭和39年に公明党を創った。そして結党宣言で、「公明党は王仏冥合・仏法民主主義を基本理念として、日本の政界を根本的に浄化し、大衆福祉の実現をはかるものである」と謳った。

 池田大作の宿願は、「日蓮正宗、創価学会を国教化すること」である。ローマ帝国がキリスト教を国教化したように、日本は日蓮正宗を国教化し、やがては世界の国々が日蓮正宗を国教として受け入れるなら、そのときこそ世界に究極の平和が訪れるに違いないと考える。

 これはなかなか気宇壮大で、魅力的な思想であり、実践であるが、その前途は険しいといわねばなるまい。国家予算で「本門の戒壇」を建立し、「日蓮正宗の国教化」を実現するには、国会で多数派とならなければならい。しかし、全国の学会票は約600万である。これを全国300の小選挙区で割れば、各選挙区に平均2万である。これだけの票で勝てるわけがない。

 600万票の学会票をもっと有効に使えないか。そこで考えられたのは、「公明党」を解体し、もっと大きな「国民政党」を創設し、そのなかに創価学会の影響を浸透させる作戦だった。池田大作のもとで、この公明党の国民党化戦略を強力に推し進めたのが市川雄一だった。

 彼は小沢一郎と「一・一コンビ」を組んで、「新進党」を立ち上げた。「新進党」が小沢の「守旧派攻撃」によって躍進し、細川の「日本新党」をとりこんで自民党から政権を争奪する勢いに乗って、市川は公明党の議員を次々と新進党の議員に衣替えさせた。

 公明党に所属していた議員が新進党を名乗ることは、大きなメリットがあった。「新進党」という看板を立てることで、創価学会に対する世間の反発を避け、保守層や労働者層にまでその支持の裾野を広げることができる。これに学会の基礎票が加われば、当選者の数を飛躍的に伸ばすことが予想された。当時衆議院事務局の委員部副部長だった平野貞夫と、元学会員・岡本の証言を、魚住昭さんの「野中広務、差別と権力」から孫引きしよう。

「そもそも新進党をなぜつくったかというと、これに公明党が協力したのは池田名誉会長の意思なんです。人を出してカネを使って政党を作って、これだけ悪く言われるのは合わないと。政治が信教の自由というのを理解したから、もう公明党は要らない。創価大を出た者が自民党からも新進党からも国会議員になる。それでいいんだという彼の判断があったんです。政党を持っていることが面倒くさいという部分もあったのでしょう」

「公明党時代は池田先生なんかしょっちゅう『わしは公明党があるから攻撃の標的にされる。宗教団体のままだったら立正構成会のようにちやほやされるのに』とぼやいていましたからね。そういう意味でもブランドは新進党、エネルギーは創価学会というのは都合がよかった。それで公明に残っている参議院議員11人も新進党に全面合流させる話が進んだんです」

 橋本政権がスタートして9ヶ月後の1996年(平成8年)10月に、小選挙区比例代表並立制で最初の総選挙が行われた。自民党は28議席増の239議席を獲得した。この選挙で野中広務は京都四区で、新進党と共産党の候補を破り、6回目の当選をはたした。意外なことに、このとき学会は上からの指示で、新進党の候補ではなく、野中を支援した。野中を敵にまわしたくなかったのだろう。

 創価学会のこうした消極姿勢もあって、新進党は4議席を減らして、156議席に後退した。旧公明党議員の議席も、52人から39人に減った。こうしたなかで、旧公明党議員の新進党離れが進んでいった。

 それでも4月後の1997年(平成9年)2月の党大会で、7月の都議会選挙後、11人全員を新進党に合流させる方針が決まった。そしてこの方針にしたがって、8月にはまず3人の参議院議員が新進党に移っている。ところが4月後、合流話はご破算になり、新進党が分裂した。

 その背景には公明党と野中広務の急速な接近があった。野中は旧公明党の議員達と頻繁に会い、「中選挙区にもどして当選しやすいようにするから、公明党を復活させないか」と甘い蜜言をささやく一方で、「公明党が消滅したら、池田大作先生の身辺が危うくなるかもしれない」という、議員たちにはもっとも恐ろしい指摘をしたらしい。

 学会の本部がある信濃町はとても静かである。その理由は「静穏保持法」という法律があるためだ。1988年に成立したこの法律で、国会周辺と外国公館、それに政党事務所周辺での拡声器使用が規制されている。

 もし、公明党の議員が全員新進党に合流したら、信濃町から「公明党」の事務所が消える。そうするとこの法律が適用されなくなり、おそらく右翼の宣伝カーが押し寄せるだろう。信濃町にある池田大作の住宅の周辺はとくにねらい打ちされないとも限らない。

 自民党がこの法案を通したのは、「消費税法案」を通すため、これに反対していた公明党を懐柔するためだった。公明党はその直後の選挙でこれを批判された。公明党がこれだけの犠牲を払ってまで成立させた法案が、役に立たなくなるというのだ。右翼が以前のように押し寄せてきても打つ手がなくなる。池田大作を守ることがむつかしくなる。

 野中はこれを京都市内の料亭で学会副会長の西口に告げたらしい。西口はこの情報に驚いて、合流にストップをかけた。小沢にも妙案はなく、「衆議院だけを新進党に残して、参院は公明党を復活させてはどうか」と提案したらしい。しかし、これでは公明党にメリットはない。これがひきがねになって、公明党は新進党との合流をあきらめた。

 その年の12月27日、小沢は新進党の解党を宣言した。解党宣言を境に、旧公明党のグループだけではなく、鹿野道彦のグループや旧民社党のグループも次々と離脱した。結党時に衆参両院で215議席を擁していた新進党は6つのグループに分裂し、小沢が新しく立ち上げた自由党には54人の議員しか残らなかった。こうして小沢は政界での発言力を一気に失った。

 しかし、小沢と市川が手を組んで実現した「小選挙区制」は、創価学会にとっておもわぬ遺産となった。自民党と民主党が拮抗する小選挙区で、創価学会が握る2万票は決定的な重みを持つことになる。学会票が来るか来ないかで、差し引き4万票の得失になる。つまり、日本のほとんどの選挙区では学会を敵に回しては選挙に勝てない。こうして与野党の議員は学会票欲しさに学会にすり寄っていく。

 元学会員の証言によると、学会には国会議員のブラックリストがあるという。議員達の発言は常にチェックされ、「反学会」の発言をした議員は「適性」というレッテルが張られる。そうすると、その議員は選挙で勝てない。こうして前回の総選挙では、島村宜伸、小杉隆、深谷隆司などの自民党議員が落選した。落とされた議員は二度と学会を批判しなくなる。こうして学会批判が政界のタブーとなっていく。 


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