橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2004年10月09日(土) 公明党を小沢から奪う

 小沢一郎が経世会の中で力を蓄え、やがて分裂して自らの派閥をつくることができた背景に、公明党書記長の市川雄一、ひいては池田大作創価学会会長との太いパイプがあった。93年夏に細川政権を誕生させた立て役者の一人は市川である。

 市川は池田会長の覚えがよかった。1976年に初当選し、86年に国対委員長に起用され、当時官房副長官だった小沢と意気投合した。細川内閣の組閣前日、池田は長野市で行われた学会本部幹部会で、こうスピーチした。

「スゴイ時代にはいりました、ね! そのうちデージンも何人か出るでしょう。まあ、明日あたりですから。みんな、皆さん方の部下だからそのつもりで。日本一の創価学会ですよ。明日の新聞楽しみに。まだ言うのは早いんですけどね。これからですよ本当の仕事は」

 翌年、市川は小沢と新進党を結成した。しかし、これを境に、自民党の創価学会攻撃が猛然とはじまる。そして、その先頭に立ったのは、いうまでもなく「政界の狙撃手」と恐れられた野中広務だった。

 野中はまず、学会発行の「聖教グラフ」に目を付けた。そこに池田が外国の要人と会見する写真がたびたび掲載されていた。問題は写真のバックに映っているルノワールとかマチスといった有名画家の絵だった。

 野中はその絵を創刊号からすべて調べあげ、学会が届けている資産リストと照合した。その結果、届けられていない資産がかなりあるらしいことがわかった。野中はこの事実を公然とは発表せず、それとなく漏らした。学会としてはこうした野中の行動が不気味だった。

 さらに、池田側近で「公明」代表の都会議員・藤井富雄が暴力団の組長と密会したところを撮られたビデオを自民党の亀井静が入手したという情報がもたらされた。情報の出所は野中広務だった。野中に脅されて、学会はふるえ上がった。

 村山内閣が発足し、非自民政権が崩壊すると、自民党の公明・創価学会攻撃はさらに熾烈になった。自治大臣となり国家公安委員長の地位に就いた野中は「オウム事件の捜査が宗教法人の壁に阻まれた。法改正の必要がある」と言い出した。

 そして95年秋の国会で、創価学会に拘わる宗教法人法改正が行われた。これに先立ち、創価学会会長の秋谷栄之介が国会に参考人として呼ばれた。「このまま野中と対立していたら何をされるかわからない」という恐怖心が学会に広がった。

 小沢と「一・一コンビ」を組んでいた市川書記長は更迭された。公明党は新進党から離脱し、小沢と距離を置くようになった。そして創価学会は野中に叩かれるたびに恐怖心を募らせ、野中に接近していった。こうして野中は公明党を小沢から奪い、「自公連立政権」を作りあげた。

 野中は自民党の他の議員が直接公明党と接触することを許さなかったという。公明党への窓口を自分だけにしぼることによって、野中はさらに自らの権力基盤を盤石なものにした。自民党のみならず、社会党と公明党を握った野中はいまや権力の頂点に立ち、「影の総理」とまでいわれるようになった。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加