橋本裕の日記
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政治に下克上はつきものである。佐藤首相は後継者に福田赳夫を考えていたが、田中角栄はこれを拒んで戦い首相になった。しかし、その田中も竹下登に寝首をかかれる。竹下が下克上を決意したのは、田中が不用意に口にした「おれがもういちど首相をやる。お前はその後だ」の一言だったという。
田中はロッキード事件で逮捕され、公判中だった。竹下はとうぜん田中が自分に会長の職を禅譲してくれると期待していたのだが、それがかなわぬと見て、田中に反旗を翻した。田中はアルコール漬けになりやがて脳梗塞で倒れた。
その竹下もやがて小沢一郎に足許を脅かされた。小沢の幹事長就任に反対したものの、派閥の会長である金丸が小沢を溺愛していたのでどうすることもできなかった。しかし約30億円におよぶ脱税容疑で金丸が議員辞職すると、風向きが変わった。
金丸は自分の後継に小沢を指名しなかった。小沢が懇願しても、「それはあとの人間がきめることだ」ととりあわなかった。このころ、金丸が心を許していたのは野中だった。野中は失意の金丸を毎日のように訪れ、マージャンをしていたという。そして野中の背後にいたのが竹下だった。
金丸の後、経世会の継総裁に選ばれたのは小沢ではなく竹下子飼の小渕恵三だった。争いに敗れた小沢は新派閥、改革フォーラム21を結成し、羽田孜を会長に据えた。こうして経世会は分裂した。小沢の番記者の回想を魚住昭さんの「野中広務」から引用しよう。
「一連の抗争で野中さんが果たした役割は大きかった。もし野中さんの小沢攻撃がなかったら、分裂まで進んだかどうか。梶山、小渕、橋本、小沢、羽田といった面々だけだったら和解できたかも知れません。何と言っても彼らには一緒に田中角栄から袂を分かった(経世会の)七奉行という一体感があって、小沢さんも『梶山は話がわかる』とか『ブッちゃん(小渕)は騙されている』とか言っていましたから」
翌1993年6月に、政局が一気に動いた。社会党などの野党が提出した「宮沢内閣不信任案」に改革フォーラムの30人の衆議院議員が同調したため、これが可決された。宮沢は衆議院を解散したが、佐川急便事件や金丸脱税事件などで頂点に達していた政治不信は収まらず、7月18日に行われた総選挙で自民党は過半数を割り込んだ。
小沢はここで一気に勝負をかけた。35人の当選者を出して政界に新風をまきおこした「日本新党」の細川護煕を首相候補に担ぎ出し、これに武村正義の「さきがけ」をとりこんで、非自民連立政権を樹立したのだ。こうして38年におよぶ自民党一党支配に終止符が打たれた。
しかし、国民の期待をあつめた非自民連立政権も、細川首相のNTT株疑惑が持ち上がり、暗雲がたちこめてくる。清潔だと思われ、それを売り物にしていた細川首相が、熊本県知事時代に佐川急便から借金をしてNTT株を購入し、多額の利益を上げていたというのだ。
この問題が公の場ではじめて明らかになったのは、1993年12月8日の予算委員会だった。質問に立ったのは、2年前に島NKH会長を辞任に追い込んだ「政界の射撃手」だった。野中は何食わぬ顔でこう質問した。
「ところで、これは仄聞ですが、総理もまたかってNTT株を手がけられているという話を聞いておりますけれども、そういうご経験はおありですか。・・・・総理自身の名義だけではなく、だれか他人の名義で株を取得されたという御記憶はございませんか」
細川首相は「すべて事務所に任せておりましたので、定かな記憶はございません」と野中の質問を一蹴している。しかし、それから一週間後、毎日新聞が12月15日付の夕刊の一面トップで、大スクープをした。
<細川護煕首相が佐川急便側から借りた一億円を購入資金に充てたとされる東京都港区のマンションなどを担保に、首相の義父が証券金融会社から総額約四億円の融資を受けてNTT株三百株を購入していたことが十五日、関係者の証言でわかった。首相が熊本県知事だった1986年、当時の秘書も協力し、うち百九十九株を売却して多額の利益を得ていた。佐川側からの融資に絡む疑惑が国会で取り上げられている中、首相ファミリーの名義による不透明な株取引が浮かんだ>
疑惑は国会で執拗に取り上げられ、火だるまとなった細川首相は、翌年4月8日に辞意を表明した。25日に羽田が非自民連立政権の代表として細川の後を継いで首相になった。しかし、羽田政権もわずか2ヶ月しかもたなかった。
非自民連立政権内部で、小沢一郎新生党代表幹事と村山富市社会党委員長との軋轢が激化し、社会党が連立政権を離脱し、こともあろうに自民と連立したからだ。この思っても見ない政変劇を実現させたのは、「社会党の村山を連立政権の首相にする」という戦略だった。
この秘策を社会党とのパイプを活かして実行したのが野中広務だった。1994年(平成6年)6月30日、自社さ連立の村山内閣が誕生した。村山は衆議院本会議での所信表明演説で、「日米安保堅持」「自衛隊合憲」「日の丸・君が代容認」を打ち出した。
歴史が大きく動いた瞬間だった。野中は村山の演説を聞きながら、深い感動に突き動かされたという。そして「これだけの大変な決断をした人を自分は一生支え、尽くしていかねばならん」と決意したという。
事実、野中は村山を支えた。汎神大震災、地下鉄サリン事件と未曾有の事件が続発し、円高不況で経済が落ち込む中、政策決定に時間がかかる連立内閣に、自民党の内部から河野総裁を首相にしろという声があがった。森幹事長までもが記者会見でが「第一党の自民党が中心になって政権を作っていれば、こんなに政治はもたもたしなかった」と発言した。
この森発言に野中は激怒し、「政治家としての資質に欠ける。怒り心頭に発している」と記者会見で森を批判した。こうして野中は自民党の不満を押さえ込み、村山政権の「守護神」と呼ばれるようになる。村山はこうした野中について、後年こう述べている。
「閣議の後に行われる閣僚懇談会でいろんな人の発言を聞いていて、僕が一番評価しとったのは野中さんだよ。言うことがきちっとしているしね。例えば『円高で厳しい中で中小企業が高金利を払わされている。借り換えできるような措置をとるべきじゃないか』と言ったりね。それに野中さんは誰よりも豊富な情報を持っているから決断も早い。できんことはできんと言い、やると言ったことは必ずやるから頼もしかったですよ」
村山内閣の功績として挙げられるには、95年6月の「不戦決議」や8月15日の「総理談話」で過去の植民地支配と侵略に対する反省とおわびを明記したこと、「被爆者援護法の制定」「水俣病患者の救済」だが、こうした自民党が一番いやがることを実現するのに頼りがいがあったのが野中だったという。
しかし、村山内閣の実現は社会党が社会党らしさを失い、やがては世論の支持を失って衰退する道への第一歩だった。いや、冷静に歴史を振り返るとき、それは日本の政治に大きなマイナスだったのではないか。野中の政治戦略は、政治の王道を破るものだった。そしてこれに踊らされ、自民党の復権をむざむざと許した村山も、罪の深い政治家だといわなければならない。
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