橋本裕の日記
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2004年10月07日(木) ピンチをチャンスに変えた男

 33歳で園部町の町長になった野中広務が最初にした仕事は、たまった料亭の飲食代の精算だった。幹部が料亭にいりびたっていたため、3軒の料亭に当時の町の予算の一割に匹敵する350万円もの借金がたまっていたのだという。

 実は借金はもっとあった。それを町民税と固定資産税で毎年棒引きしていたらしい。その分を差し引いても、350万円もの借金があったわけだ。町民の税金で町の幹部が好き放題飲み食いをしていたわけで、まさに腐りきっていた。

 野中は料亭に借金を250万にまけさせて、即金で支払った。そして、「今後は収入役の伝票を持っていかない分の請求については支払わない。自分も酒は飲まない」と宣言して、宴会政治に歯止めをかけた。

 町長になった野中は歴代の保守系町長とうってかわり、蜷川支持を打ち出した。その結果、府から配分される地方交付税や補助金が増えた。こうした事は蜷川支持によって可能になったわけだが、その一方で、野中は当時自民党の幹事長をしていた田中角栄にもよしみを通じていた。

 野中は「僕ぐらいでしょ。園部の野中です、と言って角さんの部屋に入って行けるのは」と自慢していたという。しかし、野中には田中に頼らなければならない切迫した事情があったことも事実だった。

 園部町は野中が町長になった翌年の1959年(昭和34年)8月に、集中豪雨で園部川が氾濫し、約700戸もの家屋が倒壊したり、浸水している。その一ケ月後にも再び洪水に見舞われ、刈り入れ前の稲に壊滅的な被害を及ぼした。二度の洪水の被害額は2億8千万円に上がったという。園部川は翌年も氾濫し、やはり2億5千万円もの被害額をだした。

 こうした中で町の財政は極度に窮乏した。野中は町の復旧のためなら蜷川も角栄も、利用できる者は何でも使わなけらばならなかった。蜷川の前では災害に悩む貧乏町の町長として国にたよらなければならない苦衷を述べ、角栄の前では蜷川に頼らなければならない苦衷を口にしていたのかも知れない。後年、野中は田中角栄についてこう語っている。魚住昭さんの本から孫引きする。

「角栄先生とは、三十年くらいまえ、京都府園部町長時代からの、おつきあいです。先生は、ご自身、なんのメリットもないのに、あれこれ親切に世話して下さいます。田舎の土の臭い、過疎地の感じをきちんとつかみ、理解してくれる人なんです。

 なにか頼むとするでしょう、だれでも『わかった』という。でも、あの人の場合、わかったというだけじゃない。すぐに処理してくれた上に、その結果を、自分で、自分でですよ、こちらに連絡してくれるんです。九年まえ、私の母が死んだとき、葬式に秘書をよこしてくれました。しかし、それだけじゃないんです。初盆のとき提灯を送っていただいた。こんなこと、できますか」

 野中は蜷川の懐刀でありながら、その仇敵である角栄とも親密な仲を築いていく。そんな野中を地元新聞のコラムは「このコウモリ、なかなかゲイがこまかくて、今もって鳥からは、鳥仲間だと親しまれ、獣からは獣仲間だと可愛がられて、少しもあやしまれていない。正に天性舌端の妙技だといえそうである」と書いた。

 度重なる園部川の氾濫は、莫大な損害を町に与えたが、悪いことばかりではなかった。野中町長の奔走で国と府の援助がこの町に洪水のように押し寄せてきたからだ。これによって老朽化した橋は付け替えられ、立派な堤防や道路が整備された。地元の土建業者がうるおい、これが後に野中の強力な選挙マシンになる。

 野中は逆境に強い。天災による援助金をうまく運用して人件費を浮かせることで、町の財政がかえって豊かになった。野中は町役場に最新式の事務機器を導入し、住民課を新設して、町民へのサービスの向上をはかった。

 新入学児童の教科書代も国に先駆けて無料化した。砂埃を立てていた町の道路もみるまに舗装された。下水道の整備も急ピッチで進んだ。就任時には1800万円もあった町の財政赤字も3年ですべて解消した。

 こうして野中町長のもとで園部町は生まれ変わり、4年後には「全国優良町」の表彰を受けた。園部町はモデル自治体として全国から視察団が訪れるまでになった。野中は行政手腕を評価され、辣腕の地方行政家としての名声を全国に鳴り響かせることに成功した。


橋本裕 |MAILHomePage

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