橋本裕の日記
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| 2004年10月06日(水) |
政治家・野中の誕生悲話 |
野中広務のふるさとは京都府船井郡園部町大村である。野中は1925年(大正14年)10月20日、ここで農業を営む北郎・のぶ夫妻の長男として生まれている。当時、50戸ほどある農家のうち、自作農はわずか2,3戸で、あとはすべて小作農だったという。
大村はもともと非差別部落民の村だった。江戸時代に村人たちは皮革生産をなりわいとする一方で、「警刑吏役」として藩内の治安維持にあたっていた。御用提灯や十手をもって犯罪取り締まりにあたり、刑の執行、牢死者の遺体の片づけなど、警察官や刑務官の役目を与えられていた。
彼らは「役人」として藩からは見返りに給金を支給され、年貢も免除されていた。大村は役人村として周囲の住民からは恐れられ、彼らを支配・処罰する冷酷な人非人として蔑視されていた。こうした役人村の伝統は、江戸時代よりはるかにさかのぼるという。
平安時代に京の治安を取り締まり、犯罪者や疫病死した遺体の処理をするのは検非違使の役目だった。そうした京の警察・衛生行政組織の手足として動いたのが非人といわれる人々で、京都には大村ほほかにこうした特殊な部落がいくつかあったという。
明治時代になり、彼らは役職を解かれた。そうすると、彼らは住民に対する支配権や監督権を失い、もはや恐れられる怖い存在ではなくなった。しかも役人だった彼らは、生業とする田んぼや畑を持たなかっただけに、経済的にも窮乏した。こうして彼らには「蔑視」と「差別」だけが残った。
ここで、1922年に駒井喜作が京都市の岡崎公会堂で読み上げた「水平社宣言」の一節を紹介しよう。野中広務が生まれる3年ほど前のことである。その頃の時代の雰囲気が分かる。魚住昭さんの「野中広務、差別と権力」からの孫引である。
「ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎとられ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は、涸れずにあった」
「吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ。吾人々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱め、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、いたわることが何であるかをよく知っている吾人々は、心から人生の熱と光りを願求し礼賛するものである。水平社は、かくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ」
この水平社宣言は彼らの置かれた現実の厳しさを雄弁にかたっているが、こうした「差別」や「蔑視」が生まれた背後に存在した「支配」と「恐怖」の権力構造についてはほとんど語っていない。差別や蔑視を生み出す闇の力、そして闇の力を生みだす社会の歪み、こうしたものの存在を軽視すれば、歴史の本質を見失うことになる。
それはともかく、話を戻そう。野中広務が旧制中学に学ぶことができたのは、彼の家が大村では珍しい自作農に属していたとが大きい。しかし、自作農といっても野中家には四反ばかりの田があるだけで、父親は郡役場で給仕として働きながら、広務をはじめ5人の子どもを育てなければならなかった。決して豊かな暮らしという訳ではない。
広務が旧制中学に進学したのは教育熱心な母親のおかげだという。野中は「自由新報」のインタビューで、「父親は平々凡々な人でしたが、母は僕にとってすばらしい人でした。辛いときなど母の夢をみますよ」と語っている。彼は厳しくてやさしかった母について、こうも語っている。
「たとえば朝起きて、われわれが仏壇とか神棚に手を合わせて、いまだにしますけれども、食卓に坐ってはしを両手の真ん中に置いて、こうして拝んで『いただきます』と言わなければ絶対食べさせてもらえなかった。・・・親父はもう絶対そんなことは言わない。これは酒も飲まない。たばこも吸わない。肉類は一切食わない。ただ人の世話をしたという人だった」
1943年(昭和18年)野中広務は府立園部中学を卒業すると、大阪鉄道局の職員に採用された。このころから戦況は悪化し、1945年1月に野中に「赤紙」が届いた。野中は四国の部隊に配属された。高知海軍航空隊の特攻基地の近くだったから、特攻隊員たちが飛び立つ光景もよく目にしたという。
終戦を知った野中は自決するつもりだったらしい。そのとき小隊長に殴られ、「死ぬ勇気があるのなら、日本の再興のためにがんばれ」とさとされたのだという。野中は国鉄に復帰した。そしてしゃにむに働き、職場でも実力が認められるようになる。
5年後には大阪大鉄局業務部審査課の主査になっていた。上司の覚えもめでたかったが、そのころ職場で、彼が「被差別部落民らしい」という噂が広がった。言いふらしたのは、彼が目をかけていたおなじ園部町出身の後輩だった。後に野中は京都府議会の本会議場でこう証言している。
「私は一週間、泣きに泣きました。私には目が三つあるわけではない。皮膚の色が違うわけではない、口が二つあるわけではない、耳が四つあるわけではない。何も変わらないのに、そして一生懸命がんばるのに、自分が手塩にかけたそういう人たちに、なぜそんなことを言われなくてはならないのだという、奈落の底に落ちた私の悲しみは一週間続きました」
熟考したあげく野中がたどり着いたのは、「ここはおれのおるところではない。自分という人間を知っているところで、もう一度生きなおしてみよう」という決断だった。こうして彼は故郷に帰ってきた。そして、やがて「影の総理」とまで呼ばれることになる被部落民出身の政治家、野中広務が誕生するわけだ。
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