橋本裕の日記
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| 2004年10月04日(月) |
差別を権力に変えた男 |
以前、「田中角栄入門」を連載していた頃、ひとりの気になる政治家がいた。野中広務という男である。部落出身らしい彼が、57歳という年齢で国会議員になって、あっという間に権力の階段をかけ登った、その不思議に引かれたのである。
最近、私のこの疑問を解決してくれる本にであった。魚住昭さんが書いた「野中広務、差別と権力」(講談社)がそれだ。これを読むと、田中角栄以後の政局がよくわかる。野中広務が小沢一朗と張り合って、どのように彼の野望を打ち砕いたか。そして野中自身が、いかに日本の政局で主導権を握り、ついには失脚して権力を小泉に渡す羽目になったか。
そのなまなましい政治ドラマを読みながら、それでも不快感はなく、むしろある種の感動を覚えたのは、底辺からはい上がり、そして転落した彼に、もののあわれにも似た同情と共感を覚えたからだろう。田中角栄にも感じられるような、辛酸をなめ苦労した男が醸し出す体臭には、二世・三世のお坊ちゃん代議士にはない人間的な温かみが感じられる。
もちろんこの温かみは一筋縄のものではない。自ら差別された者として、彼は弱者への愛をしばしば語ったが、これがくせもので、彼はこの差別を利用して、弱者の代表として権力の階段をゆっくり昇っていった。しかし権力を握った彼が実際に行った政治は、弱者に対してむしろ冷酷であり、犠牲を強いるものであることが多かった。
彼が京都府園部町の町会議長になり、やがて町長におされたのは、彼が部落出身であることと無関係ではない。当時、部落解放運動の高まりの中で、町政は困難に直面していた。当時町議をしていた人が、こんな証言をしている。魚住さんの本から引用しよう。
「糾弾会の荒れようはすさまじく、灰皿やヤカンが飛んでくるのは当たり前でした。町会で『なぜ、彼らだけが固定資産税を免除されるのか』と質問した議員が自宅をぐるりと取り囲まれることもあった。そんな状態だったから、誰もあまり町長などなりたがらない。寿命を縮めるだけですからね。だけど野中さんなら解放同盟を抑えることができる。そういう事情もあって彼は若くして副議長、議長になれたのです」
1958年(昭和33年)、町長が心労で倒れた。そのあとに野中をという声が出たが、「部落出身者を町長にはできん」という声もつよかった。しかし「荒れた議会を仕切れるのは野中さんしかいない」ことで、結局野中が町長にかつぎだされた。
部落問題による対立を解消する調停者として、野中は町政に足がかりを築き、そして、ついには町長の地位を射止めたわけだ。町長になった彼は部落解放の運動については、「アメと鞭」で臨み、ときにはこれを抑えることに容赦しなかった。こうして彼は部落民からはわれらが代表として、一般市民からは「部落の要求に屈しない町長」として、絶大な支持を得た。
彼はときに自らの被差別体験を語り、「差別のない社会の実現」を切々と訴えた。そしてまた、自らの戦争体験を語り、平和の貴さを口にする。しばしば沖縄に言及し、現地に足を運び、戦争の非人間性をしみじみと述懐した。
しかし、彼が小渕内閣の官房長官となり、「影の総理」と呼ばれて権力の中枢にあった1998年からその翌年にかけて、一体どのような法案が国会を通過したか見てみれば、彼が決して一筋縄でいかない人物であることがわかる。
先ず、99年5月22日の通常国会で、衆議院をガイドライン関連三法案が通っている。これは周辺有事の際に米軍の軍事行動に官民挙げて協力するという、これまでの日本の防衛政策の枠組みを変える重要な法案である。さらに、8月には、国歌・国旗法案、盗聴法案、住民基本台帳法案など、国民の基本的人権を制限する法案が次々と可決された。
これら一連の法案によって、日本はその進路を右寄りに大きく変えた。その舵取りをしたのが野中だった。その進路変更はやがて時が経つに連れて大きくなる。こうして、去年はイラクへ自衛隊が派遣され、今年に入ってからは東京都で国旗に対して起立しなかった教員が処分を受けた。わずか数年を経て、こうしたことがほとんど何の抵抗もなく行われるようになったわけだ。
もとより野中広務は小泉首相のような確信的な国家主義者ではない。野中にはそのようなイデオロギーはほとんどない。現に、園部町長時代の彼は共産党系の蜷川京都府知事を支持していた。それはそうすることが、彼にとって有利だったからだ。野中はいつも蜷川にぴったりと寄り添い、蜷川も野中をかわいがって、人前で彼の腕を掴むと、「この野中君は私の片腕です」とまで言っていた。
しかし、その同じ頃、野中は目黒に直参し、田中角栄にもよしみを通じていた。そして、後年、田中派の圧倒的な支持を得て、府議会議員に当選することになる。そして府議会で今度は「知事、あなたは重大な差別者であります」と蜷川糾弾ののろしをあげる。
当時の自民党にとって、蜷川長期府政を打倒することはほとんど悲願だった。そしてその切り札になれるのが野中だった。もしこれに成功すれば、報奨として国会議員への道が開けるに違いなかった。ことを野中はよく知っていた。野中は自ら捨て身になって拮抗する両陣営の狭間に身を置き、そして自分の野望を実現するためにはどんなことでもした。かっての恩人でさえも切り捨てた。
実際、国会議員になった彼は、大恩人の田中をも裏切って、経世会の旗揚げに参加し、竹下のもとで頭角を現して行った。常に抗争の狭間に身を置き、自分を最大限売り込める相手につくというのが、野田広務の処世術であり、部落差別から身を起こし、影の総理と言われる権力者にまで上り詰めた出世の秘密だった。(つづく)
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