橋本裕の日記
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諭吉自身の手で1898年(明治31年)に出版された「福沢諭吉全集」は1巻から6巻までの構成になっている。「学問のすすめ」や「文明論之概略」など、それまでに出版された彼の主な著作がここに収まっている。
これに対して、諭吉の死後、1925年(大正15年)に石河幹明によって「大正版」として大幅に増補された全集は10巻構成になっている。編纂者の石河は大正版の「端書」にこう書いた。
<今回時事新報の1万5千号の記念として先生の遺文を出版するに当り、是等未載のもの、並びに先生の筆に成れる時事新報社説の抄録とを既刊の全集に加えて都合十巻となし、矢張り「福沢全集」の名を以て刊行することにした>
大正版は分量が倍増している。そしてそのうちの3巻は、これまで一度も福沢の文章だとは考えられたことのない無署名の新聞論説でしめられた。福沢の著作としてあらたに付け加えられた時事新報の論説は1500編に及ぶが、このなかに福沢の手にならないものが多数含まれていて、それはほとんど石河の文章だった。福沢は死後四半世紀を経て、自分の弟子によってこんな不正が行われようとは思ってもみなかっただろう。
しかもこの全集が戦後も形を変えて生き残り、福沢はアジアを蔑視し、侵略を賛美する国権皇張主義者であるというレッテルまで貼られたのだからたまらない。平山洋さんの近著「福沢諭吉の真実」(文春新書)は、この過程を論証して、福沢の名誉を挽回したものだと言ってもよい。ちなみに平山さんは慶應義塾の卒業生である。
さて、ここでだれしも次のような点を疑問に思うだろう。何故、諭吉は自分の思想とまったくあいいれない国権主義者の石河幹明を時事新報の記者としてやとい、大切な論説を大量に書かせたかということだ。石河の読むに堪えないアジア蔑視の論説を、諭吉もまた読んでいたはずだからだ。
諭吉が石河幹明を評価していなかったことは、「新聞の社説とて出来る者は甚だ少し。中上川の外には水戸の渡辺、高橋、又時として矢田績が執筆、其他は何の役にも立ち申さず、不文千万なり」「石河はあまりにつまらず。先ず、翻訳位のものなり」という他の門人にあてた手紙で分かる。(これらの手紙は全集にはない)
しかし、福沢が頼りしていた中上川や渡辺、高橋は次々と社を辞めていった。その殆どは実業界に身を投じて、それぞれひとかどの業績をあげている。福沢にとって、これは慶賀すべき事であったと同時に、困ったことでもあった。つまり新聞社にろくな人物がいなくなったのだ。そして最後まで残ったのが、何かに凝り固まったような、およそ諭吉と肌の合わない国権主義者の石河だった。平山さんはこう書いている。
<後年には「時事新報」の主筆となって、正続「福沢全集」を編んだり「福沢諭吉伝」を著したからといって、彼が言論人福沢の衣鉢を継いだなどと評価するのは誤りである。文章の下手さについての注文が見られなくなる89年以降の書簡にも、福沢は思想家として石河に期待するような言辞を表明することは一切なかった。有能な実務者としての扱いしかしていない。・・・
諭吉が脳卒中で倒れた98年9月以降には、北川が社を去ったため、石河が一手に論説を引き受けたのは事実だろう。つまり、福沢の思想を代弁していると見なせるかどうかはさておき、「時事新報」論説の多くは石河が書いたというのは確かなことである>
石河の存在は諭吉にとって、不快なものだったに違いない。しかし、新聞社にとって石河は必要な人材だった。それは彼が実務家としてすぐれていたからばかりではない。彼の書いた論説は時代の要請に合っていたからだ。とくに日清戦争が始まった頃からは、石河の独壇場だったのではないだろうか。
諭吉はただ石河の独走を手をこまねいていたわけではない。諭吉は明らかに論調の違う社説を論説を署名入りで書いている。そしてそこにはアジア蔑視の表現は片言相句すら見当たらない。しかし、諭吉の真筆の論文は次第にその数は減り、晩年には、新聞社からも足が遠のいた。「福翁自伝」のなかで福沢はこのことを告白している。
以上の事情がわかっても、まだ不審が残るかもしれない。それは石河が「福沢諭吉伝」で引用した文章の中には、諭吉の真筆がいくらか含まれていて、そこで彼は自ら国権主義者らしい片鱗を見せているからである。たとえば石河は諭吉が国権主義者である証明として、「福翁自伝」から次の部分を引用している。
<支那の今日の有様を見るに、何としても満清政府をあの儘に存して置いて、支那人を文明開化に導くなんと云ふことは、コリャ真実無益な話だ。何はさて置き老大国根絶やしにして仕舞って、ソレから組立たらば人心ここに一変することもあろう。
・・・其人心を新たにして国を文明にしようとならば、何は兎もあれ、試みに中央政府を潰すより外に妙策はなかろう。之を潰して果たして日本の王政維新のやうに旨く参るか参らぬか屹と請け合いは難しけれど、一国独立の為めとあれば試みにも政府を倒すに会釈はあるまい。国の政府か、政府の国か、此のくらいの事は支那人にも分かる筈だと思ふ>
ここで諭吉は日本が大陸に侵攻し、会釈抜きに清国を潰せと主張しているようにとれる。しかし、実は諭吉はそんな物騒なことを主張してはいない。政府を潰す主体として彼が考えているのはあくまでもその国の人民だからだ。その証拠に「国の政府か、政府の国か」と書いている。人民による人民の政府を創れと言っている。
石河は1932年の「福沢諭吉伝」の中で、これをあたかも諭吉が日本が中国大陸に侵略し、これを力尽くで「文明化」せよと主張したものとして引用している。こうしたトリックを使って、侵略戦争を鼓舞した国権主義者としての福沢諭吉を創り上げたわけだ。
ところで、戦後有名になったのが、福沢諭吉の「脱亜論」である。1885年3月16日に時事新報紙上に「社説」として掲載されたものだが、これも石河によって新たに全集に収録された論説である。ここに次のような問題の記述がある。
<我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの憂慮ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其の支那朝鮮に接する法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従いて処分す可きのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免れる可らず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり>
平山さんもこれは無署名だが文体からして諭吉が書いたものではないかという。そして「なるほどこれを読めば福沢諭吉のアジアへの差別意識はひどいものだ、という感想をもたれるのもある意味では同然である」と書いている。諭吉を国権的侵略主義者として糾弾する人たちが、最期の、そして最強のよりどころと頼むのがこの「脱亜論」である。
平山さんはこれに対して、「脱亜論」がどういう文脈の中で、どういう状況の中で書かれたかを論証し、諭吉の真意がどこにあったのかを明らかにしている。朝鮮人民の独立運動を支援していた諭吉は、清国の介入でその運動が潰され、運動家のみならずその一族や婦女子までも刑場にさらすという残虐な弾圧が行われたことに義憤を覚えた。
そしてその人権蹂躙を野蛮と見た諭吉は、これに対抗するものとして「文明化」の必要を説いている。そこにはもしアジアが文明化しなければ、西洋列強の餌食になるだけだという世界認識があった。
一刻も早く人民はその堕落した政府を倒さなければならないというのが「文明論之概略」以来の福沢諭吉の一貫し主張であり、その延長線上にある「脱亜論」には、「若しも然らざるに於いては、今より数年を出ずして亡国と為り、其国土は世界文明諸国の分野に帰す可きこと一点の疑いあることなし」とアジアの将来が危惧されている。「脱亜論」もまたその論説を虚心に読んでみれば、決して「アジア蔑視」という低次元の問題ではないことがわかるのである。
したがって、もし福沢諭吉をその本質において批判しようと思えば、彼の主著「文明論之概略」を読むべきだろう。私は諭吉の文明観をすべてよしと考えているわけではない。むしろそこには重大な問題点があると考えている。そこで3年余り前から、この書を座右において研究している。いずれまた、その成果を報告したいと思っている。
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