橋本裕の日記
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2004年09月27日(月) 国権主義者にされた福沢諭吉

 1982年(明治15年)3月に福沢諭吉の手で、「時事新報」が創刊された。この新聞は明治時代を代表するクオリティの高い新聞だった。1901年に福沢が死んだ後も、新聞は大正・昭和と生き延びた。廃刊は1936年2月である。

 作家の菊池寛も1916年から19年まで、時事新報の記者だったことがある。廃刊にあたり、菊池は自分の経営する「文芸春秋」にこんな文章を著している。平山洋さんの近著「福沢諭吉の真実」(文春新書)から孫引きさせてもらう。

<時事新報が解散した事は、新聞雑誌界に於ける一つの悲劇だ。殊に、僕などは、大正五年から足掛け四年ばかり、同社の粟を食んできた丈に、更に感慨深い。僕の在社当時は、同紙は一流中の一流として、信用品格とも他紙を圧倒するの概があった。

 が、その後、大正の末期から昭和の初にかけて、経営に人材を得なかった為に、今日の悲運を招いたのだろう。同紙が有力なる財閥を背景としながら、財政的破綻に苦しんだなど、結局新聞雑誌の経営は、金よりも人の問題であることを感ぜしめる。さるにても、自分の在社当時から、引き続いて奮闘していた老主筆石河幹明氏などの胸中は、察するに余りある。

 ただ、自分は同社に居た時から、慊たらぬ事が一つあった。それは、福沢翁の精神の一つは、旧形式の破壊であった。実利本位に、古い形式を破壊することであった。所が、福沢翁を尊敬するあまり、福沢翁のやり方が、同社に於いては、忽ち一つの形式となっていた。そしてその形式を巌として尊重するのであった。

 福沢翁の本当の精神は、古い形式の破壊にあったから、たとひ福沢翁のやり方でも、時勢に連れて、どんどん破壊して行くことこそ、福沢翁の本当の精神ではないかと自分は思っていた。福沢翁の本当の精神を掴むことが出来なかった事なども、同社の衰運を招いた原因の一つではなかったかと思ふ>(「話の屑籠」1937年2月号)

 菊池寛が戦時中に「話の屑籠」に書いていた文章を、以前に詳しく紹介したことがある。そこに明らかなのは、菊池寛が次第に時局に迎合的になる姿だった。軍部を礼賛し、戦争に協力する言辞が多くなって行った。そうして、「時勢に連れて、どんどん破壊して行くこと」で、文芸春秋は部数を伸ばし、廃刊を免れた。

 こうして大方の雑誌や新聞が時局に迎合していくなかで、福沢諭吉にゆかりのある時事新報が読者を失って経済的に破綻し、廃刊に追い込まれたのは、いまから振り返るとむしろ誇りに思ってよいのではないか。戦時中の大新聞の醜態を見れば、私などはついそう考えてしまう。

 もちろん、これは時事新報を持ち上げすぎかも知れない。時事新報の側でも、何とか経営を立て直そうと努力をしていたようだからである。その中心人物は主筆の石河幹明だった。彼は福沢の有力な弟子として、福沢存命中から時事新報に論説を書いていた。福沢の死後は主筆として、事実上時事新報の紙面を作っていた男だ。

「福沢全集」は諭吉自身の手で、初版が1898年(明治31年)に出版されている。諭吉の死後、1925年(大正15年)に石河によって「大正版」として大幅に増補され、1933年(昭和8年)に同じく石河の手で「昭和版」に改定された。さらに戦後1966年(昭和41年)に、石河の忠実な助手であった富田正文によって現行版「福沢諭吉全集」が刊行された。

 石河は全集の仕事と並んで、他に「福沢諭吉伝」を書いている。そして、これらの仕事を通して、石河は福沢諭吉のイメージを大きく変えようとした。「学問のすすめ」や「文明論の概略」を書いた市民的自由を尊ぶ個人主義思想家である福沢を、アジアへの勢力拡大を声高に主張する国権皇尊論者に仕立て上げようとしたのである。

 石河は福沢を日本の中国支配を予言した人物に仕立て上げることで、慶應義塾や時事新報への風あたりをやわらげ、できることなら戦争へと傾く時代の波に乗ろうとした。その手口は、国権主義者であった石河自身が、日清戦争中に時事新報に書いた無署名の論説を中心に福沢の説だとして全集にいれることである。その多くは次のような文章だった。

<思うに日清戦争は我国空前の一大外戦にして、連戦連勝、大に日本の威武を揚げ、世界に名声の嘖々たるを致したれども、支那兵の如き、恰も半死の病人にして、之と戦うて勝ちたりとて固より誇るに足らず。日本人の心に於いては本来対等の敵と認めず、実に豚狩りの積りにて之を遇したる程の次第なれば、外国の評判に対しても密に汗顔の至りに堪へず>

 さらにこうした時局に迎合し、アジアを蔑視する一方で天皇制を賛美する文章を全集から引用して、「福沢諭吉伝」を書いた。「全集」も「諭吉伝」も慶應義塾大学からの委嘱で書かれ、出版は岩波書店である。これを手にしたものに、その権威を疑わさせないような巧妙なしくみを整えた上で、石河は「諭吉伝」に次のように書いた。

<日本が自国の安危のために再び国を賭して争わねばならぬ以上、其結果として早晩日韓合併の運命を見るべきことは、先生の予期していられたところであった。否な多年朝鮮問題の一事に其心身を労せられたのも、結局この目的に到達せんがための努力であったといふて差し支えないのである。(略)

 思ふに、先生の持論なる国権皇張論は、世間に耳を傾くる者なきに拘わらず、終始一貫多年来これを主張して止まず、遂に朝鮮問題より日清戦争となったに就いては、前に述べた如く先生の心中には此戦は恰も自から開かれたる如き心地せられ、愉快自から禁ぜざると共に其責任の極めて重大なるを感ぜられたであろう>

 今日の諭吉研究家であれば、この石河発言を軽々しく否定するわけにはいかないだろう。しかし、当時のほとんどの人は石河のこの計略に乗らなかった。福沢が死んだとき、彼を国権皇張論者として尊んだ者は一人もいなかったからだ。むしろその個人主義を批判する声が多かった。たとえば、福沢の死を知った大町桂月は「太陽」に「福沢諭吉を吊す」という物騒な文章を書いている。

<諭吉の常識は、幾んど円満に発達したりしかど、人は万能なる能はず、惜しむらくは、国体の美を解せざりき。楠公の討ち死にを、権助の縊死と罵りしが如き、・・・・眼中に国家なく、皇室なきに至りては、日本国民として、決して之を許すべからず>

 たしかに福沢は「眼中に国家なく、皇室なき」と言われても仕方がなかった。「学問のすすめ」の中で楠木正成を批判し物議を醸したが、その文章をいささかも変えることなく明治版全集に収録しているからだ。また、天皇についてはほとんど無関心を装い、「忠孝論」の中で、次のように書いている。

<国に忠を尽くすとは、即ち其国人に忠を尽くすの謂ひにして、再言すれば、人々自ら己れの為に忠を尽くすと云ふに異ならず>

 福沢がこうした文章を書いていたので、戦争中、慶應義塾の出身者は肩身の狭い思いをしたようだ。軍隊でも慶應義塾というだけで差別され、いじめられることもあったらしい。こうした逆風を順風に変えようとしても、なかなかむつかしい。石河の詐術を見透かすように、東大国史学教授の平泉澄は陸軍士官学校の教科書で4ページにわたり福沢の「学問のすすめ」を批判している。

<是れ即ち自由平等の説にして、之を徹底せしむる時は、君臣の関係は畢竟便宜的にして、功に基づくとなす説というべきなり。・・・楠木正成の忠誠、赤穂浪士の義挙は、茲に根本の価値を傾倒し来るは当然なり>(本邦史教程)

 こうして、石河が演出した「福沢ルネッサンス」はあだ花と消えた。そもそももはや時代は国権主義者としての福沢など必要としていなかったのである。それを必要としたのは、時事新報であり、慶應義塾だったのだろう。石河が手がけた大正版「全集」、昭和版「全集」と「福沢諭吉伝」、そして「現行版全集」もまた、その見るも無惨な記念碑である。

 ところが、戦後、価値が転倒する中で、思わぬことが起こった。自由な個人主義者として福沢を評価した丸山真男らに対して、福沢諭吉は国権主義者であり、アジア蔑視の首謀者であるという批判が起こったのである。そして、そのよりどころは、「福沢諭吉全集」のなかに収められた文章であり、石河の「諭吉伝」であった。

 福沢が国権主義者でないことは、時代の要請の中でいかにして全集が作られ、福沢諭吉の虚像が作られていったかを見てみればあきらかである。平山洋さんは「福沢諭吉の真実」でその過程を詳細に記したあと、次のように結んでいる。

<ことわざに、「棺を蓋て毀誉定まる」というのがあるが、福沢諭吉くらいそれにあてはまらない人物も珍しい。卒塔婆さえ朽ち果てた後のこの毀誉の激変の原因は、ひとえに石河幹明に帰せられる。それというのも侵略的絶対主義者としての福沢というイメージを、没後30年の「福沢諭吉伝」と大正・昭和版正続「全集」の「時事論集」で創り上げたのは石河だったからである。そもそも「脱亜論」が後年かくも「有名」となったのも、福沢ならぬ「福沢の威を借りた石河」へのある種滑稽ともいえる糾弾の試みの一幕としてであった>

 平山さんがいう「ある種滑稽ともいえる糾弾の試み」のなかには、名大名誉教授の安川寿之輔さんの著書「福沢諭吉のアジア認識」もふくまれているのだろう。この著書が出版されてまもなく、2001年当初に、私はある勉強会で安川さんから直接「福沢諭吉がいかにひどいアジア蔑視の文章を書いているか」詳しく話を聞く機会があった。

 当時、安川さんは朝日新聞の論壇に「福沢諭吉−−アジア蔑視広めた思想家」という一文を投じ、その後、慶應義塾大学にも招待されて講演をしたという話だった。私は話を聞きながら、私が親しんできた福沢諭吉と随分違うなと思ったが、そのうち、朝日新聞の論壇にに平山洋さんがこれに対する反論「福沢諭吉−−アジアを蔑視していたか」が掲載されたのを読んで、少し救われたような気がしたものだ。

 現行版福沢諭吉全集は学士院賞を受賞した権威ある書だが、その後記には編集者の富田氏によってあたかも全てを福沢が書いたかのような解釈が付されているという。平山洋さんは「おわりに」のなかで、「現行版全集」の「時事新報論集」は早急に改定しなければならないと主張しているが、当然のことだろう。


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