橋本裕の日記
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| 2004年09月26日(日) |
リーマンの栄光とかなしみ |
ガウスが20世紀に生まれていたら、おそらく相対性理論を発見していただろう。しかし、天才はなかなかよき後継者には恵まれないものだ。彼らはすべてを自分一人でなしとげてしまう。他人と協同で研究することをしないので、弟子も育たない。
ガウスは多忙であった。彼のもとに送られてくる多くの論文は、この大天才の目からすれば、ほとんどが評価に値しないがらくたに過ぎなかっただろう。たまたま評価に値するものを発見しても、それはかって自分が手がけた未発表の業績だったりした。
アーベルの貴重な論文を見逃したこともあって、ガウスは他人の業績に冷淡だと見られているが、そんなガウスの人間像を覆すエピソードもないわけではない。そこで口直しに、ガウスがその最晩年に巡り会い、彼自身の後継者とした天才数学者の話をしよう。
1854年6月10日、ゲッチンゲン大学哲学部の教授たちを前に、ひとりの若い数学者が就職講演を行った。数学者の名前はリーマン(1826年〜1866年)である。リーマンの父は寒村のルター教会の牧師で、彼はその長男だった。リーマン家は6人の子どもを抱え、赤貧洗うがごとしだった。
リーマンは牧師になるため19歳の時大学に入ったが、途中から数学に転向していた。しかし、数学で生計を立てるのはむつかしく、27歳になっても収入がなかった。学位をもっていても、この講演テストを無事合格しなければ私講師にさえなれない。
彼に与えられたテーマは「幾何学の基礎になる仮説について」だった。これをリーマンに与えたのはガウスだった。リーマンにとってこれはいままで研究したことのない新分野だった。しかも、テーマが示された7週間後に、教授達を前に発表しなければならなかった。
哲学科の教授の多くは数学の門外漢である。数式を使わず、問題の本質がなんであるかを、分かりやすく語る必要があった。そしてリーマンはこの困難な講演を完璧にやり遂げた。
5)1直線上にない点を通って、その直線と平行な直線は1本も引けない。
リーマンはユークリッドの第5公準(平行線の公理)をこのように修正しても、新しい幾何学が完全に成立可能であることを明らかにした。それはたとえば球面上にたとえられる。球面の上に描かれた三角形の内角の和は180度よりも大きい。
かって、ヤーノッシュ・ボヤイ(1802〜1860)やロバチェフスキー(1793〜1856)が挑戦した難問であり、ガウスが生涯かけて研究した問題でもあった。意外なことに、他人の才能や業績を滅多に賞賛したことのない冷徹なガウスだったが、リーマンの講演を聴き始めるなり別人になった。
リーマンの講演の見事な美しさに、ガウスは驚嘆し、感動のあまり体を震わせた。そして、大学の帰り道でも、ガウスの興奮はまだ続いていた。彼は友人のウェーバーに、リーマンの講演がいかにすばらしいものだったかを熱心に説明した。そして話に夢中になるあまり、とうとう溝に落ちてしまったという。
ガウスに激賞されたリーマンはゲッチンゲン大学の私講師になった。講演の8ケ月後の1855年2月23日に老ガウスは他界したが、リーマンはその後も順調に出世して、33歳でガウスの後継者として数学科の正教授の地位についた。そして、ベルリン学士院の会員、英国王立協会やフランス学士院の会員にもえらばれた。これは科学者として最高の栄誉だった。
しかし、リーマンにとって、この栄光の数年間は、悲しみの押し寄せてきた歳月でもあった。すでに幼くして母を失っていたリーマンだったが、ガウスが死んだ年には彼自身の父と妹をなくし、その2年後には弟を、そして残された二人の妹までが次々と死んで行った。そして、1866年7月20日、リーマン自身が天国に旅立った。原因は肺結核だった。
リーマンの生涯は40年にも満たなかった。しかし、20世紀に入り、彼の名はさらに高くなった。かってガウスが予想した通り、この世界はユークリッドの考えたような平坦な世界ではないことがアインシュタインによって証明されたからだ。私たちの住んでいるこの宇宙は、まさしくリーマンが創造した球面幾何学の世界だった。彼の名は「リーマン幾何学」とともに不朽である。
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