橋本裕の日記
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2004年09月23日(木) 共生倫理学の真実

 世の中には、すべてのことを「競争」という観点でしか眺めない人たちがいる。人生は他者との戦いの場であり、これに勝利を収めることが、何よりも大切なことだと考える。そして敵に勝つためには、ときには仲間で団結し助け合わなければならない。

 そこから生まれてくるのは、ひとつのアンビバレンツな感情である。すなわち、外部に対する敵意と内部に対する愛情だ。内部に対する愛情が、ほんものの愛情でないことは明らかである。それは多くの場合、道徳や規範を生む。その行き着く先は、ナショナリズムだ。忠君愛国などというスローガンがここから生まれてくる。

 倫理学もそのはじまりはこうした閉ざされた共同体における修身・道徳のローカリズムから始まっている。しかし倫理学が修身・道徳と異なっているのは、それが学問となることによって、普遍性への志向が内包されていることだ。

 ローカルからグローバルへ、これが倫理学の志向である。そしてこの志向は、「競争」から「共生」への志向だと言ってもよい。倫理学とは地上の人々がいかに平和に、愛情をもって生きることができるか、その原理を明らかにしようとする。

 ある人々は、そのような「共生原理」が、他者と敵対する「競争」から生まれると考える。たとえば、新古典主義経済学者たちがそうだ。過酷な生存競争が生命進化をもたらしたと信じるネオ・ダーヴィニストや「利己的な遺伝子」をベーズに生物の「利他的行為」を説明しようとする一部の生物学者もそうである。

 たしかにこれは有力な思想ではある。しかし世界を説明するのに必要な唯一の科学的思想だとはいえない。私はこれとまったく同様な論理的・実証的妥当性をもつ世界観が可能であると考えている。それが「共生原理」に立った世界観である。残念なことに、この世界観はまだ充分認知されているとは言えない。科学的証明も充分ではない。しかし、それだけにこうした世界観を建設する仕事には将来性がある。

 私はすべての現象を「共生」という観点から眺めることにしている。そこでこの視点から、もう少し倫理学の問題を考えてみよう。そうすると、おおまかに言って、二つの重要な問題が浮かび上がってくる。

 一つは、先に述べたグローバル化の問題である。私たちは助け合ってこの地上に生きている。そしてこの「私たち」というのは、単に父母兄弟でもなければ、友人ばかりではない。家族や地方を越え、国境を越えた広がりを持っている。

 さらにそれは、人類という範疇さえも越えている。つまり、「私たち」の中に含まれるのは、この地上に生きるすべての生物だということだ。つまり倫理学の最終課題が、自然との共生だということがわかる。

 そして、もう一つの論点は、さらに思想的に深い問題をはらんでいる。それは、私たちは常に他者の犠牲の上に、自己の生を築いているという真実である。共生というのは、たんに仲良く暮らすことではない。助けうということは、実はもっとシビアでかなしい現実を前提にしている。

 私たちは魚や家畜を殺してその肉を食べる。そしてそれ以外にも、多くの生命からその命を奪うことで我が生命を支えている。そしてこれは多くの生命の生きる必然であり、運命である。助け合いは、実は他者の死を媒介して成り立つプロセスである。

 その意味で、「他者のために生きる」ということは、その裏側に、「他者のために死ぬ」という論理を潜めている。このことを理解するとき、私たちは「共生」ということのもっとも深い真実に触れることできる。そしてこれこそが共生倫理学の真実だと言ってもよい。

 ところで、この真実から何が生まれるであろうか。私はそれは「他者に対する真実の愛」であると思う。それは競争から生まれる偽りの道徳から決して生まれることのない、森羅万象に対するほんとうの慈愛であり、感謝である。そして、これは宗教がこれまで私たちに語りかけてきたもっとも深いメッセージでもある。


橋本裕 |MAILHomePage

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