橋本裕の日記
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8月に友人5人と一緒に、小淵沢へ遊びに行った。そして夜遅くまで語り合ったのだが、とくに隣りに寝ていたTさんとは遅くまで寝物語をした。Tさんは2年前に高校の数学教師を定年で退職している。その後の生活ぶりをいろいろと語ってくれた。
退職して、一番変わったのは、考え方の幅が広がったことだという。以前ならば受け付けなかった考えや発想にも、「そうか、そうした眺め方があるのか」と素直に感動できるようにになった。人の意見にも耳が傾けられるようになり、生きることが随分楽になったという話だった。
Tさんはもともとそんなに狭い考えの人ではない。だれとでも親しくなり、私などよりはるかに社交的で明るい人柄だと思っていたので、こうした告白は少し意外だったのだが、それでも話を聞いているとなるほどと頷くことができた。
Tさんは在職中はいろいろと人に合わせて生きて生きたが、本質はかなり頑固な部分があったのだという。それは一口で言うと、「正しいことは正しい」というような頑固さである。そうした芯の強い誠実さを貫いて生きてきたわけだ。そうした生き方は立派かも知れないが、かなり不自由な生き方でもある。
そこで私はこんな話をした。人生は数学や科学で割り切れる部分とそうでない部分がある。数学や科学で割り切れるのは、因果律や論理が支配する世界である。私たちのように学生時代から数学や自然科学に親しんできた理系人間は、往々にしてこうした合理的な必然性で人生を割り切ろうとする。
しかし、人生にはそうした合理性で割り切れない部分がある。物理化学的な因果律や数学的な必然性の論理だけではこの世の中に起こっていることは説明ができない。そうした因果律の必然性に加えて、外部からさまざまな偶然的な要素が「縁」として働く。その人が本来もっている「因」に加えて、さまざまな「縁」との出合いによって、私たちの人生模様が豊かに織りなされていくのではないか。
こうした話をしていると、すでに眠っていたと思っていたKさんが起きあがり、ここから宗教や恋愛の話になってさらに話は進化し、深更にまで及んだ。それでも早起きの私は翌朝5時に床を抜け出し、住職をしているMさんを起こして、約束通りに一緒に宿の外の赤松林を散歩した。
仏教では人生とは因(必然)と縁(偶然)が縦糸と横糸のように織りなして創られると説いている。つまり、内因とか外縁というのは、もともと「仏教」の「因縁果の説」からきている。この<因−縁−果>の弁証法は、現実世界での真実を求める上でもとても役に立つ考え方だ。林間を歩きながら、僧職にあるMさんとそんな話をした。
そのあと宿の露天風呂の温泉に浸かっていると、TさんやKさんたちもやってきた。だれもが少し寝不足である。しかし、湯に浸かりながら、やはり人生がすばらしいのは、自然や人との出合いがあるからだろうと思った。これもすべてゆたかな諸縁のおかげである。
歳をとると頑固になって、人の意見に耳を傾けなくなる人がいる。しかし、定年退職してから、考え方の幅がひろがったというTさんのような人もいる。できることなら私も、他者の意見に耳を傾け、対話し、学ぶことを、生涯のたのしみにしたいものだと思った。
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