橋本裕の日記
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2004年09月03日(金) 勤労学徒と戦争

 これまで戦時中の新聞、雑誌について書いてきた。大新聞が戦争翼賛の機関となって、戦争賛美へと突きすすむなかで、一部の地方紙や雑誌を舞台にこれに果敢に抵抗する人々がいた。その多くがインテリだった。それでは一般の庶民はどうだったのか。

 佐藤明夫さんの「戦争動員と抵抗(戦時下の愛知の民衆)」には、「特高月報」などの資料を使って、庶民の抵抗する様子が生き生きと描かれている。そこでこの本から、愛知県の中島・半田の工場に動員された学徒たちに焦点をあてて、いくつかの事例を紹介してみよう。

<甲府商業4年生は、中島・半田に動員されていたが、会社の待遇が約束と違うと抗議し、要求を作成し、引率教員に渡して交渉した>

<半田商業5年生は半田重工業に動員されていたが、引率教員の体罰に憤慨し、工場の休日にクラス全員があつまり、教師宅に押し掛ける騒ぎがあった>

<豊橋中学1年生は豊川海軍工廠に動員されていたが、組長の暴力制裁に抗議して火薬工場に投石したり、昼休み後、職場に戻らずサボタージュを実行した>

<京都3中の生徒は、半田・中島に動員されたことが不満で、校長が寮に泊まったとき、電源を切り、職員室に投石し、とび口で天井を破る騒ぎを起こし、警官・憲兵がかけつけておさまった>

<中島・半田に動員された山梨英和高女10名は、甲府空襲の情報に不安になり、彼女らは申し合わせて早朝ひそかに女子寮を脱出し、山梨に引き上げた>

<名古屋市立機械工業2年生は、爆撃で級友が犠牲になると、たまりかねて集団で工場を脱出し、自宅で終戦を迎えた>

 1944年(昭和19年)3月、中等学校3年以上の授業を中止し、男女の生徒を軍需工場に動員することが閣議決定された。全国に先駆けて、愛知県では4月の始業式からいっせいに、徹底的に実施された。

 佐藤明夫さんは、「これは学校教育の否定であり、教師の任務の放棄であったが、もはや疑問を口にすることも許されなかった」と書いている。

 しかし、中には勇気のある教師もいた。たとえば豊橋松操高女の中村要教頭は、中島半田工場へ動員されていた170名の生徒の安否を気遣い、工場側と交渉して、生徒全員を東浦町の工場に配置転換させたという。ついでに宿舎も半田の女子寮から、豊浦の寺院などに分宿させるよう要求した。

「15,6の少女を犠牲にするわけにはいかない。だめならば豊橋に連れて帰る」とまで強硬に主張した結果、工場側もこれを受け入れた。半田製作所と女子寮が米軍に爆撃されたのはその3日後だった。多くの女生徒がこれによって死んだが、移転した松操高女の生徒は全員無事で終戦を迎えたという。佐藤さんはこう書いている。

<原爆攻撃をのぞけば、全国最多の学徒の死者を出した愛知であるが、以上のような生徒の生命を守ろうとした教師の異議がなければ、さらに多くの若い生命が奪われたであろう。当時では非国民との非難を覚悟せねばならぬ言動であった。小数ではあっても、記録に残っていない勇気ある教師はまだまだいたと考えられる。・・・なお、生徒と共に空襲で生命を失った引率教員も少なくないが、その実数は未調査である>

 戦後50数年を経た現在、戦争によって生命を奪われた勤労動員学徒の正確な数はわからない。1952年の愛知県の調査では866人となっているが、これはかなりずさんな調査で、佐藤さんが約10年かけて再調査した結果では1020人を数えた。

 全国でどのくらいの勤労学徒の命が奪われたか正確な統計はないが、広島原爆で7200人の勤労学徒が死んでいる。長崎とあわせると、1万名以上だ。沖縄戦でも、1200人以上の学徒が死んでいる。

 愛知県の1020名という数字も大きい。軍需工場が多かったので、被害がおおきかったのだろうが、爆撃されることが分かっていて工場の寮などに宿泊させていたのが解せない。現場を知らない上からの命令なのだろうが、これに異議を唱えた教員がいたことに救いを感じる。

 それにしても、死亡した勤労学徒の統計が残っていないのはどうしてだろう。長年に渡り、これを丹念に調査して、労作である「戦争動員と抵抗」を書かれた佐藤明夫さんに直接お尋ねしたところ、終戦当初は連合軍に気兼ねして、なかなか調査できず、そのままになってるのではないかということだった。

 ところで、私は少国民と呼ばれた少年・少女の多くは、澄んだ目をした凛々しくて健気で勤勉な軍国少年、軍国少女たちのように思っていた。戦時中の記録映画や戦時中を扱った映画やドラマに描かれているのも、いずれも真面目で行儀がよい生徒たちだ。

 しかし当時の「特高月報」には、いささか様子の異なった生徒達の姿が描かれている。それは学校や体制に不満を持ち、反抗したり、サボタージュする生徒達だ。勤労動員された工場でも反抗したり、抗議したり、一部ではかなり過激な行動が生じていたことがわかりる。「特高月報」(昭和20年8月)はこうした状況を次のように分析している。

<工場事業場に出勤せる勤労学徒は、一般的に勤労動員の感激を其のまま職場に宣揚し、相当なる成績を収めつつあるも、一部には動員も長期化に伴ふ疲労感、学徒動員の性格的曖昧性、職場環境並びに学徒自身の時局認識欠如等に基因し、其の不平不満は漸次増高し、各種紛争も相当に発生をみつつあり>

<学徒の中には、学徒特有の学的思索と真理追究欲よりして、その態度極めて批判的かつ懐疑的となり、勤労意欲の希薄化、厭戦的敗戦的感情の萌芽を看取せらる>

 終戦が近づくにつれて、動員中学生の喫煙、飲酒、喧嘩、盗みなどの頽廃行動も増えたようだ。これも戦争に対する消極的抵抗といえよう。また、大同製鋼に動員された旧制八校の学生たちは、レーニンやマルクスの発禁本を廻し読みし、作業を徹底的にさぼったため始末書を書かされたりしている。佐藤明夫さんは、「戦争動員と抵抗」の中で、次のように書いている。

<少年・少女たちの戦争への思い切った異議申し立て行動が、長い間、戦線離脱の裏切りに近いうしろめたい体験として記憶されていたのである。学徒動員世代が健在であるうちに、さまざまな異議申し立ての事実をほりおこすと同時に、庶民の抵抗の歴史として、積極的な評価をすることが急がれるのである。マインドコントロールをくり返させないためにも>

 昭和6年の満州事変のあと中央の大新聞が戦争賛美に傾く中、地方新聞や雑誌を舞台に戦争に抵抗する運動は続いていた。しかし、昭和12年の日中戦争を境に、軍部の圧力がこうした言論をも押さえ始める。そして太平洋戦争がはじまり、国家総動員体制のもと、とても息苦しい時代になるが、そうしたなかでも庶民の様々な抵抗が続いていたことがわかる。

「朝日新聞の戦争責任」「昭和史の決定的瞬間」「戦争動員と抵抗」の3冊は、こうしたそれぞれの時代における人々の戦争に抵抗する姿を描き出している。この3冊を合わせ鏡にすることで、この時代の真実がまたひとつ鮮明に浮かびあがってくるようだ。

(参考文献)
「戦争動員と抵抗(戦時下の愛知の民衆)」佐藤明夫著、同時代社


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