橋本裕の日記
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雑誌は新聞に比べて広告収入の割合が20パーセント以下と少ないので、スポンサーの意向に影響されることはそれほどない。広告収入に依存して経営に神経を使わなければならない全国紙にくらべて、かなり自由な立場で発言できた。しかも執筆者は組織を背負わずに、個人の責任で発言する。それだけにより広く深く、真実を捕らえることができる。このことは今も昔もかわらない。
たとえば戦前から日本を代表する雑誌として「中央公論」や「改造」があったが、「中央公論」は昭和11年9月号で「人民戦線の胎動」という特集を載せている。その中でたとえば、大森義太郎(東京帝大を助教授で退職)は、次のように労働者や知識人が軍部のファッショに対して団結するように呼びかけている。「昭和史の決定的瞬間」(坂野潤治、ちくま新書)から引用しよう。(その他の引用も同書による)
<社大党、労農協議会全農、全水、東交、全日本総同盟が集まって人民戦線を提唱し、これの急進自由主義者、学芸にたづさわっているひとびと、またなんらかの形で一般のインテリゲンツィアをも包容することを企てるならば、日本人民戦線は一応成立をみることができよう>(人民戦線・その日本における展望)
大森がこのように書いた背景には、2.26事件の6日前の総選挙(男子普通選挙、有権者1000万人)で、反戦をとなえる左派陣営が大勝したことがある。この総選挙で、右派陣営の政友会が71人も数を減らして171議席になったのに対して、左派陣営の民政党は78名も増やして205議席に躍進した。こうした国民の声援をバックにしていたからこそ、5月7日に行われた国会での民政党・斎藤隆夫の「粛軍演説」が凄みを帯びていたわけだ。
さらにこの総選挙では社会大衆党系(戦後の社会党)が17もふやして22議席を占めるにいたった。民政党と社会大衆党が組めば、全議席の半分233議席にわずか7議席たりないだけになる。中間政党の動向では右派陣営に勝てる数字だった。
残念ながら、民政党と社会大衆党の連携はならなかった。それは反軍反軍拡の立場に立っていた民政党にたいして、社会大衆党が軍拡を支持し、軍部による社会改革に一定の期待を抱いていたからだ。整理するとこういう構図になる。
政友会(親軍、親陸軍皇道派、親財界、反英米) 民政党(反軍、親英米、親財界) 社会大衆党(親軍、反財界)
ここで、社会大衆党が反軍であれば、民政党(資本家)と社会大衆党(労働者)の連携で、おそらく日本の歴史は変わっていた可能性がある。戦後の社会党が平和主義の政党であることを考えると、なんとも残念なことだ。
社会大衆党との連携をあきらめた民政党は政友会との連携をはかる。そしてここに朝鮮総督退役陸軍大将・宇垣一成を首班とする内閣がまさに誕生しようとした。大森義太郎は「改造」(昭和11年12月号)にこう書いている。
<いまだ表面化していないが、政界には新しく政・民提携の運動、そしてこの力によって軍部に対しようとの運動が起こりつつある。・・・ブルジョア政党が、これまでのただ軍部にお世辞を使ってばかりいることをやめて、その独自の力を持って軍部に対抗しようとする精神の動いていることは、認められるであろう>
しかし天皇から組閣の大命が下りながら、この内閣は流産した。組織防衛上の危機感を深めた陸軍が天皇の意志に反して陸軍大臣を出さないという挙に出たからだ。こうして陸軍の長老を総理・総裁に迎えることで戦争とファシズムを抑えようとした民政党や政友会の試みは挫折した。
それにしても、なぜ天皇はこのときもっと毅然とした態度で陸軍を叱らなかったのだろうか。天皇と側近たちは何をしていたのか。陸軍のこうした横暴を見逃した天皇に戦争責任を問うことはできないものか。
陸軍を抑えられる自信があった宇垣は、天皇が勅命を下して陸軍から陸相を出させるようにして欲しいと、湯浅内大臣に懇願している。しかし、内大臣は、「そういう無理をすると、血を見るような不祥事が起こるかもしれぬ」と答えた。このことについて、野坂順治さんは「昭和史の決定的瞬間」でこう書いている。
<2.26事件で斎藤実内大臣が青年将校のテロで殺されてから、わずか1年しか経っていない。後任の内大臣の湯浅が右往左往したのは、やむを得ないことであった。天皇自身も、2.26事件で信頼する側近のすべてを失っていたのである。2.26事件のときのような決断する天皇の姿をもう一度期待するのは、無理な注文だった。宇垣内閣の流産は青年将校たちの置き土産だったのである>
陸軍大将でありながら反軍拡の和平推進派であった宇垣にかわり、陸軍の強いまきかえしで首相を拝命したのは林銑十郎陸軍大将だった。この人は昭和6年の満州事変に際して、朝鮮軍司令官として独断で満州に兵を送っている。いわば陸軍精神をそのまま体現したような人物だった。
この内閣には民政党はおろか政友会からも一人も大臣になれなかった。メディアはこの「軍部独裁内閣」を「超然内閣」と呼んだ。そしてこの内閣は4ヶ月もしないうちに、予算案が議会を通った直後、突然、議会を解散した。それゆえ、「食い逃げ解散」という異名を残した。
解散の理由は、政友会と民政党を戦わせ、資金を使わせて、これらの政党をさらに弱体化させるためだといわれている。しかし、この突然の解散には何の大義名分も示されておらず、多くの人々が狐につままれたことだろう。林内閣に好意的だった馬場恒悟までが、「改造」(昭和12年5月号)にこう書いている。
<内閣が普通の常識では理解できない理由により解散を断行したことによって、内閣はその信義すら疑われている。・・・信を国民に失ってそれで政治が出来ると思うならば、それはもはや常識のあるなしの問題ではなく、精神に異常あるなしの問題になる>
以上の引用からもあきらかなように、戦時下において、「中央公論」や「改造」などの雑誌が、かなり自由に発言し、軍部や時の総理大臣(陸軍大将)に噛みついていたことがわかる。中央の大新聞だけ見ていてはわからない歴史の一面がここに読みとれる。
ところで、昭和12年4月30日に行われた総選挙では驚くべきことがおこった。25議席減らして179議席に落ち込んだ民政党を尻目に、66名の候補者を立てた社会大衆党が36名もの代議士を当選させたのだ。しかも19名は各選挙区でトップ当選。東京都の全議席31のうち8議席、大阪府の21のうち6議席が社会大衆党だった。
投票率60パーセントのこの選挙で、93万人もの有権者が社会主義政党をえらんだ。ただ、その政党は「平和」よりも「庶民の暮らし」を優先させ、そのために軍部の強力な力を頼りにしていた。社会大衆党は日本社会の改革を軍部とともに行おうと考えていた。
これが完全な片思いであることがやがて明らかになるのだが、ともかく自由選挙が実施され、労働者を基盤に持つ社会大衆党の躍進が、かえって軍部の政治的台頭に力をかすことになったのは皮肉としかいいようがない。そこで、坂野潤治さんは、「昭和史の決定的瞬間」の第五章を「戦争は民主主義勢力の躍進のなかで起こった」と題している。
この選挙の後、7月7日に日中戦争が勃発し、そして日本は全面戦争の泥沼へとひきずり込まれて行った。しかしこの泥沼にいたるまで、そこには平和を希求する様々な人々の闘争があったわけだ。こうしたことは、戦争賛美一色の大新聞の紙面からは決して見えてこない。その他の資料を読むことで浮かび上がってくる歴史の真実である。最後に坂野さんの言葉を引いておこう。
<総力戦の8年間だけから、日本精神や日本人の心を引き出してくる保守派も、この8年間だけを反面教師として、戦後の自分たちだけが真の民主主義の理解者だと誤解してきた進歩派も、自分の頭の中だけで作り上げた勝手な近代日本史像に依拠してきた点では、共通の地盤に立っていたのである。ましてや、戦後日本の民主主義を、占領軍による民主主義の移植の数少ない成功例だなどと思い込んでいるメリカ人がいるとしたら、それこそとんでもない歴史音痴であろう>
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