橋本裕の日記
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昭和6年の満州事変を境に、世間の風向きが変わった。そしてこれと軌を一にするように、大新聞の論調も戦争賛美へと塗り替えられていった。しかし、そうした中で、反軍の立場から抵抗し続けた人々がいなかったわけではない。東京大学名誉教授の坂野潤治さんは「昭和史の決定的瞬間」(ちくま新書、2004年)でこうかいている。
<昭和10年に美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、彼の主要著作が発売禁止になって以後、あるいは翌11年の2・26事件以後、日本国民は戦争とファシズムに向かう世界や日本国内の動きについて、全く情報が得られず、またそれらの動きに反対する意見表明の自由を全く持てなくなった、と今でも信じている人が少なくない。日本国民が昭和12年7月の日中戦争を阻止できなかったのは、言論と言論の自由が無かったからであると、今でも信じているのである>
<しかし、これは当時の資料を直接読まなかったという怠惰の結果作られた、誤った「伝説」にすぎない。戦争が始まる前には、反戦を説く自由も、反ファシズムを唱える自由も、全く無制限とは言わないまでも、存在しており、事実多くの政治家や知識人は、内務省検閲の網をかいくぐって、国民に情報を伝え、反戦・反ファシズムを呼びかけていたのである。いったん戦争が始まってしまえば、反戦・反ファッショの言動は禁止されるが、そのことは、報道の自由が無かったから戦争が始まったことを意味するものではない>
<報道の自由、批判的言論の自由を奪われ、軍部の無謀な戦争計画を知らされていなかったから、日本国民はあの戦争に反対できなかったという「戦後神話」は、全くの虚構なのである>
坂野さんはこうした神話が生まれたのは、<当時の資料を直接読まなかったという怠惰の結果>だという。たしかに戦争賛美をくりかえす当時の大新聞を読んでいる限りでは、反戦や抵抗の流れはほとんど感じられないが、資料の範囲をもう少し広げてみると、様子がみるみる違ってくる。
雑誌や地方の新聞のなかには、こうした状況に屈せずに抵抗したものがあった。その具体的例が佐藤明夫さんの「戦争動員と抵抗」や坂野潤治さんの「昭和史の決定的瞬間」の中にたくさん取り上げられている。
国家総動員体制が確立すると、たしかに個人の自由は大幅に制限される。しかし、こうした法律を制定することを選択した段階でまだ個の自由はあった。ちなみに2.26事件の直前の衆議院選挙では、軍縮を訴求した民政党が圧勝している。
議会での自由な発言は民主主義を計るバロメーターである。昭和12年1月の帝国議会で、浜田国松代議士は、寺内陸相を相手に、「最近の軍部をみるに、あなたがたは独裁の道を歩んでいるのではないか。軍人は政治に関わってはならないはずである。軍という立場で政治を行うところに危険がある」と噛みついている。このあと陸相に「腹を切れ」と詰め寄り、内閣が解散するわけだが、この段階でまだ議会はまだ余命を保っていた。
議会が死んだのは、昭和15年、民政党の斎藤隆夫代議士が「聖戦の意義」を問う「反軍演説」をしたのに対し、議会自らが軍部に荷担して彼を除名し、「聖戦貫徹に関する決議案」を可決したときだ。
日本は民主主義の遅れた国だったというのは戦後作られた神話の一つである。日本ではすでに世界に先駆けて男子普通選挙法が施行されてい。成年男子は選挙権をもっていたし、国会で予算が通らなければ、軍部がいくら戦争をやりたくても軍資金がえられず、戦争ができないことは今も昔も同じである。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といわれる。しかし、みんなで渡った結果、ひどい目にあったのが、先の15年戦争であり、80年代のバブルではないか。しかしこれは何も日本だけのことではない。アメリカでもベトナム戦争に反対票を投じた議員はたった2人だけだ。アフガン爆撃に反対票を投じたのはたった一人だけだ。
昭和6年の満州事変以前は、国民の大半は戦争に反対だった。満州事変以後、雰囲気がかわったが、まだ反対する人々がいた。大新聞はこうした人々を見捨てて、戦争の側につき、これを弾圧することに手を貸した。そして戦争中に部数を大幅に伸ばし、軍人達と酒を飲んで我が世の春を歌っていた。
大新聞は戦時中戦争を賛美し、これに反対する人々に対して加害者であったことを少しも反省せず、いつか自分たちをかわいそうな被害者に仕立て上げた。この姿勢は、国民を無謀なバブルへと誘導した現在の大銀行の姿勢とそっくりである。
こうした大新聞の変節を尻目に、果敢に軍部に抵抗し、戦争阻止へと動いた多くの人々がいたことは特筆に値する。明日の日記でもう少し具体的に紹介しよう。
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