橋本裕の日記
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| 2004年08月30日(月) |
日本のマスメディアの体質 |
終戦後、戦争に協力した新聞社は、あいついで反省の弁をかかげた。朝日新聞の場合も「自らを罪するの弁」を掲載した。しかし、そこに書かれていることは、抽象的で、いったい何を反省しているのか、その内容がはっきしりない。
11月7日の「国民と共に立たん」では「罪を天下に謝せん」となっているが、これもどんな罪かはっきりしない。つまり戦争責任の内容が明らかではないので、全体として、国民への謝罪というよりは、言い逃れのような印象を与える。
この頃、東久邇首相が「一億層懺悔」という言葉を使っていた、これは「アメリカに勝てなくて天皇陛下に申し訳ない。みんなで陛下にお詫びしよう」ということだった。おそらく朝日の戦争責任もこのレベルだったのだろう。
8月15日の朝日の朝刊(玉音放送の後で編集・印刷されたので配達されたのは15日午後)を見ると、コラム「神風賦」では「責めは何人が負うべきか、などというなかれ」と書かれている。「玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙」というセンチメンタルな記事には、記者自らが「天皇陛下に申し訳ありません」と叫んだと書いてある。
この同じ8月15日に、ニューヨーク・タイムズはこう書いている。情緒的な日本の新聞と、冷静に戦争の現実を振り返り、将来を展望しているアメリカの新聞の対照が鮮やかだ。「朝日新聞の戦争責任」から孫引きしよう。
<国家に敗戦と不名誉をもたらしたこの日は、日本人が後に振り返れば、いまだかって知らなかった最良の日になるかもしれない。天皇はもちろん、特権的な軍人や財閥にとってではない。最良の日となるのは数世紀にわたって政治的にも経済的にも解放されない情況で、苦しい労働と借金に耐えてきた日本の民衆である。
連合国は、日本に民主主義的傾向を復興、強化するのに障害となるものを排除し、言論、思想の自由を確立することを約束した。帝国主義時代の日本では、集会で好ましくない話が出ると警察は集会を止めさせ、そのリーダーを逮捕できた。思想の自由というのは、邪悪な思想の持ち主という理由では逮捕できないということを意味するのである。
諸権利に関する法案が経済分野まで拡大されれば、日本の民衆は、その労働に対して相当の対価を期待できることになる。農民は収穫物の半分の価値の地代を支払う小作人生活から抜け出して、自分で土地を所有するのが可能になるかも知れない。日本の次世代は、これまでのような富裕な地主、銀行家などの恩恵によってではなく、自らの知性と努力による経済的地位向上を期待できる。
日本が独自にこうした変革を行っていたら、状況はもっとよかっただろう。しかし、日本人が民主主義を学びたいと思い、その価値を認めれば、民主主義は今や外からもたらされ得るのである>
戦時中、軍部や世論に阿り、生き残ることを至上命題とした日本の大新聞に、これだけの冷静な知性を期待することは無理だろう。彼らはサバイバルしただけではない。戦争を奇貨として販売部数を大いに伸ばした。戦争によって流された数千万の人々の血によって肥え太った。その様子が朝日新聞の「発行部数」の統計からわかる。
朝日新聞の総販売部数をみると、昭和5年には168万部だったのが翌6年には143万部に落ち込んでいる。これは戦争に慎重な朝日に対して広告の停止や軍部・右翼主導の「不買運動」が功を奏したためと思われる。
ところが「戦争賛美」に転換したあとは、うなぎのぼりに部数を増やしている。5.15事件があり、犬養首相が殺された昭和7年の発行部数は182万部だ。22.6事件が起きた昭和11年は230万部。昭和15年には初めて300万部を突破し、敗戦もおしせまった昭和19年には370万部まで売り上げを伸ばしている。
これは朝日新聞が全社を挙げて、戦争を賛美し、威勢よく国民をあおりつづけた結果だ。新聞社にとって、戦争はおいしいごちそうだった。多くの新聞は戦後はすばやく左派に衣替えして、こんどは民主主義の旗を振ることで部数を伸ばした。そして現在はまた保守化している。なんという時代迎合かとあきれざるを得ないが、これが日本のマスメディアの水準である。戦争中とそれほど変わっているとは思えない。
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