橋本裕の日記
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終戦記念日の8月15日に放送されたNHKスペシャル「子供たちの戦争」には、「昭和館」に寄贈されたさまざまな資料や、そしてそれを寄贈した人々の思い出を通して、戦時下の子供たちの様子や、そのころの人々の生活がよく描かれていた。
国策にそった軍国主義教育によって、おびただしい軍国少年や軍国少女がつくられた。番組では、高齢者となった彼らが、かっての戦争についてどう考えているのか、その複雑な心境が紹介されていた。
子供たちに「千人針」をつくってもらって、戦場に赴いた教師は、「子どもたちに命の大切さを教ええられなかった」ことを悔やみ、再会した教え子達に「すまなかった」と繰り返していた。
好きだったのらくろの漫画もいつかもの足らなくなるほど軍国主義に染まっていった軍国少女がいた。彼女は学校の教室が軍需工場なり、そこで敵を倒す兵器をつくることになったことに、むしろ誇りさえ抱いていたという。戦後焼け落ちた学校の敷地で見つけた爆弾を作る工具を、彼女は戦争の記念として昭和館に寄贈した。
戦死した兄が戦地から送り続けた手紙を寄贈した人もいた。彼は出征する兄を見送るときも、兄の戦死の報を聞いても、涙ひとつ流れなかったという。出征を一家の誉れとして喜び、戦死も又お国のために身を捧げたあかしである。軍国少年だった彼も兄の死をそのようにしか理解していなかった。その彼が、番組の中で涙を流しながら葉書を見つめていた。
学童疎開で長野に行った少女は、疎開中に東京の家が空襲で焼かれ、祖母や母、兄弟をみんな失った。そして、戦地にいた父からの手紙も二通届いた後、途絶えてしまう。戦後、父の戦死の報を親戚の家で聞いた彼女は、自分が孤児になったことを知った。
少女は死にたいと思ったが、自分が死ねば家族の記憶は失われる。疎開した意味もなくなる。そう思い返した彼女は、父が戦地から寄越した二通の手紙を肌身に付けて困難な人生を生き抜いた。今その手紙をあえて寄贈したのは、戦争によって引き裂かれた家族がいたことの証を後世に残しておきたかったからだという。
先の戦争で、撤退することも、投降して捕虜になることも許されなかった多くの兵士や民間人が、言語に絶する悲惨な最期を遂げた。沖縄でも勤労学徒や住民の集団自決など、数多くの悲劇が起こった。これは上層部の無能と無責任に加えて、「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」の軍国主義教育の呪縛があったからだろう。
「戦陣訓」を発布した東条英機は、戦後ピストル自殺に失敗し、GHQの捕虜になっている。阿南大将など少なからぬ軍人が切腹して果てたなかで、東条は武人らしくないという批判を受けた。戦争の最高責任者でありながら、戦犯であることをまぬがれた昭和天皇はこんな言葉を残している。
「敗因について一言いはしてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどつたことである。…我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。…軍人がバツコ(編注、いばっていること)して大局を考へず進むを知つて退くことを知らなかつたからです」(「皇太子への手紙」)
「私がもし開戦の決定に対して「ベトー」(拒否権)をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても、結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦もできかねる始末となり、日本は滅びることになったであろうと思う。」(記者会見で)
「戦争責任についてどう考えているか」との質問に、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」(記者会見で)
かって軍国少年であり、軍国少女であった方々は、昭和天皇のこの言葉に何を思うだろう。そして、NHKの番組に写し出された戦争中の自画像を、どんな思いでご覧になられたことだろう。戦争を知らない私でさえ、涙があふれそうになった。体験された方々は、万感胸に迫るものがあったのではないかと推察する。
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