橋本裕の日記
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2004年08月21日(土) 天皇一神教の誕生

 わが国には古来より様々な神々がいた。先祖たちが自然そのものを神として崇めていたからだ。そこに6世紀になって仏教が伝来したが、神々は生き残り、仏教の仏達と、この日本でなかよく暮らしてきた。

 明治元年(1868)に維新政府により神仏分離令がだされた。これはわが国の伝統的な神仏習合の信仰形態を一掃しようとするものだった。新しく政権をとった維新政府が国を治めるために、天皇の権威を高める必要があったからだ。

 西洋の場合は、キリスト教がある。これが西洋文明の精神的基盤になっている。しかし、日本の場合はこうした中心となる基盤がない。西洋の進んだ文明に追い付くためには、こうした国家の精神的基盤をつくらなければならない。

 かって聖徳太子は「和の精神」を唱え、仏教を国を治めるためのよりどころとした。しかし、仏教は多くの宗派に分かれて統一を欠いている。そもそも仏教で西洋列強の一神教文明に太刀打ちできるとも思えない。国家の主権者としての天皇の権威を高めるためも、仏教はあまり役に立たなかった。

 そこで神道の採用となったわけだが、そうなると仏教は無用の長物ということになり、全国各地で寺院、仏具、経文などを破壊する廃仏毀釈運動が展開された。比叡山の日吉山王社へは120人もの暴徒が押し寄せ、神殿に侵入、仏像、仏具、経典などを破壊したという。背景には広大な領土を持ち、既得権益の上にあぐらをかいていた寺院への民衆の反感もあったのだろう。

 興福寺ではなんと僧侶全員が神主になり仏像や伽藍を破壊した。五重塔も金目になる金具を取った上で焼こうとしたが、付近の住民が延焼をおそれて反対したので消失をまぬがれた。こうした中で、仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典、などが破壊されたり、二束三文で売られ、国外に流失した。

 このような事態が生まれたのは、明治政府が神仏分離令とともに、寺領上知令を出して、寺院の領地を取り上げたためだった。古都奈良の寺や全国の大寺はその広大な領地を一気に失って、内部から崩壊した。神職に走るものや、寺宝を持ち出して売る僧侶が続出したわけだ。

 このとき廃寺された寺は全国の半分にのぼったという。なかでもすさまじかったのが伊勢地方や薩摩を中心とする九州地方だった。このため、伊勢地方や九州に現在有力な大寺がみあたらない。

 富山では領内の1635ほどあった寺を6寺までしようとしたらしいが、明治政府は廃仏毀釈の暴徒化や行き過ぎについては厳罰でのぞみ、騒ぎはやがて沈静化した。また、鳥羽伏見の戦いで朝廷側につき、明治政府に莫大な献金をしていた両本願寺派の寺院は、太政官が保護することを布告したため、廃仏毀釈や寺の領地を取り上げられることはなかった。

 明治政府はこうして仏教を分離して切り捨てた後、全国に十数万もあった神社の統合に乗りだした。明治4年(1871)には近代社格制度を布告し、それまで祭られていたざまざまな祭神を整理し、天皇家にゆかりの深い古事記、日本書紀の神々を中心にした国家神道への再編と統合をはかった。

 さらに日露戦争の翌年の明治39年(1906)には一町村一社を原則に神社の統廃合を行なうとする「神社合祀令」が出された。博物学者の南方熊楠はこれを「神殺し」と呼んで猛烈に反対した。そして柳田国男たちの尽力で神社合祀令はやがて撤回されたが、その間に多くの神社が貴重な鎮守の森とともに破壊された。

 一方で台湾や朝鮮半島などの植民地には新しい神社が建てられ、現地人に日本の国家神道が強制されて行った。こうして戦争の過程を通じて日本的一神教が完成したのだが、それがいかに日本と近隣諸国に災いをもたらしたか、いうまでもないことである。

 戦争中に高唱された天皇を中心とする一神教的な日本精神は、明治政府が西洋の真似をして、日本を強国にするために創りだした虚構にすぎない。日本は戦争にまけて、ふたたび神々と仏たちが仲良く暮らす国になった。このおおらかな精神風土を大切にしたいものだ。

(参考サイト)
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_20.html


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