橋本裕の日記
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子どもの頃、父の実家に帰ると、家の隣が鎮守の森で、神社の境内が遊び場だった。神社には大きな太鼓が置いてあった。村祭りのとき、これを叩くらしい。死んだ父がばちをもって私と弟に叩いて見せたことがあった。
近くを清流がながれ、そこにたくさんの魚がいた。父と小一時間も潜っていると、大きな籠が魚で一杯になった。それを河原で焼いて食べた。豊かな水の流れは対岸の山の緑や、空の白い雲を写していた。そうしたものを眺めて、自然の息吹のなかに身を置いていると、子供心にもそこが特別な場所のように感じられた。何か「神々しい豊かさ」で心が満たされたものだ。
父が死んで、田舎の家もなくなった。屋敷の木はすっかり切られ、そこはただの草はらと近所の料亭の駐車場になった。お盆には帰省して、家族で墓参りをしているが、村は年を追って自然破壊が進んでいる。上流にダムができたころから、水の流れはやせ細り、魚の姿も少なくなった。
夏だというのに水浴びする子供たちの姿もない。山を切り開いて立派な道路やインターチェンジはできたが、村はさらに過疎になり、いつからか村祭りの太鼓の音も聞かれなくなった。幼い頃、村はもっと豊かだったし、人々も生き生きとしていたのに、最近は村を訪れるたびに、喪失感に襲われる。
しかし、神社と鎮守の森はどうにか残っている。神社の木陰に来ると、少しだけほっとする。今年の夏は、墓参りをしたあと、特別な気持で村の様子を眺め、そして熊野の森を愛した南方熊楠のことを思った。
熊楠は博覧強記で「歩くエンサイクロペディア」とよばれた。しかし、体操と数学苦手で、東京大学予備門を落第した。故郷の和歌山に帰って、押入の中でふて寝をしていたというから、人間味を感じる。
彼は日記や随筆に同性愛の少年の思い出を書いている。それでいて、無類の女好きでもあった。柳田への手紙にも、「自分が夜這いをするように言われるのは心外だ」というようなことを書いている。男からも女からも、だれからも愛された熊楠は大学者でありながら、偉大な自然人でもあった。品行方正な柳田は、「日本人の極限を生きた男」だと、あきれるしかなかったことだろう。
友人の北さんが熊楠と空海の近縁性を指摘している。空海と熊楠はたしかに共通部分がある。司馬遼太郎が「空海の風景」のなかで空海について書いた言葉は、おおむね熊楠にもあてはまる。
「空海は、長い日本歴史のなかで、国家や民族というささたる(空海の好きな用語のひとつ)特殊性から抜け出して、人間もしくは人類という普遍的世界に入りえた数少ないひとりであったといえる」 「生命や煩悩をありのまま肯定したい体質の人間だったに違いない」 「生命を暢気で明るいものとして感ずる性格だったかと思われる」
空海も熊楠も自然を愛した野人で、自然からたくましい生命力を得ていた。そして、空海も熊楠も、天性の詩人であり、微小なもののなかに宇宙を感じることができた人だ。熊楠は高野山を愛し、真言密教にも通じていた。仏教の根底にある「共生の思想」は、学問的に言えば、エコロジーの思想と少しも変わらない。
熊楠はこの世界を「曼陀羅」と見立てて、仏教でいう「因縁」で世界を考えている。「因」というのは、近代科学の「因果律」だ。直線的に原因と結果が繋がった「論理」「数学」「力学」の世界である。世の中を生存競争の原理で割り切る俗流ダーウイン主義もこれだ。
これにたいして、「縁」のほうは「偶然」が支配し、変幻自在な出合いがあり、複雑なクモの巣のように森羅万象がからみあっている。熊楠は自然や生命現象を、こうした必然と偶然の織りなす美しい織物(曼陀羅)と考えていた。今はやりの「複雑系」の思考であり、この点でも世界に先駆けていた。
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