橋本裕の日記
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南方熊楠が後半生を過ごした紀州田辺市は、熊野の玄関口といわれるだけあって、特異な人物が出ている。源義経に仕え、最後は奥州で壮絶な死を遂げた豪傑の弁慶がこの地の出身だという。
熊楠が「神社合祀法」に反対する投書を書き続けた地元の新聞社『牟婁新報』には、社会主義者の荒畑寒村がいたことがあるし、大逆事件で絞首刑になった管野スガもいた。戦後の社会党の委員長で、首相になった片山哲もここの生まれだという。
また、熊楠は大逆事件に連座して処刑された成石平四郎と交遊をもち、植物採取の依頼をしている。石成は「神社合祀」に反対して戦っている熊楠に強いシンパシーを抱いていたようで、処刑を前にして東京の監獄から遺書と思われる手紙を熊楠に送った。石成はこの手紙を出した6日後に処刑された。
<南方熊楠先生。先生是迄眷顧を忝しましたが、僕はとうどう玉なしにしてしまいました。いよいよ不日絞首台上の露と消え申すなり。今更何をかなさんや。唯此上は、せめて死にぶりなりとも、男らしく立派にやりたいとおもつています。監獄でも新年はありましたから、僕も三十才になつたので、随分長生をしたが何事もせずに消えます。どうせ此んな男は百まで生たつて小便たれの位が関の山ですよ。娑婆におつたつて往生は畳の上ときまらん。そう思ふと、御念入の往生もありがたいです。右は一寸此世の御暇まで。 東京監獄にて成石平四郎 四十四年一月下旬>
大逆事件の捜査の手は、熊楠にまで及んだようだが、二人の書簡は生物学に関するものが主だったようで、どうにか事なきを得た。それにしても、熊楠はずいぶんあぶない橋をわたっている。後年、昭和天皇に進講できたのが奇跡のようだ。
(参考サイト) http://homepage1.nifty.com/boddo/kmgs/hongu.html
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