橋本裕の日記
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2004年08月11日(水) 山の人、里の人

 名は体をあらわすというが、たしかに南方熊楠(ミナカタ クマグス)という名前は、いかにも南方からきた縄文人のようなイメージである。まさに「森の人」という感じだ。

 これにたいして、柳田国男(ヤナギダ クニオ)はその名前からして、大陸系の弥生人という感じで、こちらは「里の人」というところだろう。

 二人が文通することになったきっかけは、明治43年に熊楠が獄中で柳田国男の「山上問答」「遠野物語」を読んだことだ。熊楠は翌年、『東京人類学会雑誌』に「山神オコゼ魚を好むということ」を掲載し、これを読んだ柳田国男から手紙が来た。以後、二人の文通が始まる。

 明治44年(1911)3月の最初の手紙で、柳田は「山人」について問うている。柳田は山人というのは里から追放されて山に入った先住民ではないかと考えていた。これに対して、熊楠はそうした事実はないという立場だった。

 大正6年(1917)の実質上最後となる手紙でも「山人」についての話題が取り上げられている。 結局、この溝が埋まらないまま、二人は破局をむかえた。7年間の間に熊楠が出した手紙は161通にのぼり、柳田からは74通が確認されているという。

 柳田国男は日本民族学の父と呼ばれ、南方熊楠は母と呼ばれている。しかし、その資質は水と油のように違っていた。熊楠が民族学を世界の中に位置づけようとしたの対して、柳田はあくまで日本の独自な民族学にこだわった。こうした柳田のナショナリズムに、熊楠が反発したのだろう。

 大正5年2月に柳田が自ら編集する「郷土研究」に「蛙のおらぬ池」を発表すると、すかさず熊楠は翌月に「鳴かぬ蛙」を書き、6月に柳田が「白米城の話」を書けば、8月にはこれまた熊楠が全く同じ題の論文を書いてこれを批判する。二人の論争はエスカレートするばかりで、ついには「郷土研究」そのものが休刊になってしまう。

 柳田からみれば、いちいち自分に噛みついてくる熊楠はなんとも厄介な存在だっただろう。おまけに大酒のみで、田辺の自宅まで会いに行っても、旅館へ追い返し、泥酔してあらわれる始末である。それでも、柳田は熊楠の学識を尊敬し、「太陽」などの一流の雑誌に熊楠の論文を紹介している。

 大正7年(1918)3月2日 帝国議会が「神社合祀令」を撤廃。熊楠の運動が最終的に実を結んだが、これも柳田の協力がなければ、熊楠の情熱と行動だけではとうていできないことだった。こうしたことは熊楠も充分わかっていたはずである。それにもかかわらず、熊楠はあまり柳田に感謝していない。むしろこんな悪口を友人に言っている。

「小生が海外のことをやたらに引き出して博聞に誇り、柳田氏の狭聞を公衆の前に露わすごとく解せしにや、すこぶる小生の文を喜ばず、ややもすれば小生の出したものは延引または没書となる」

 熊楠が柳田に出した昭和元年(1926)6月その最後の手紙には、「小生少しも聞きたがらぬに貴君のことを告げ来たるものあり。そのことはなはだ面白からぬことゆえ、見合わせと致す」とある。柳田は後年、「後にまことに馬鹿げたことで先生からうとんじられ」(「南方熊楠先生」)と回想している。熊楠の罵詈雑言に、柳田は紳士の態度で応じている。

 外遊のあと、日本に帰った熊楠には大学から誘いもあった。米農務省からはわざわざ役人が田辺まできて招聘に応じるように求めたほどだった。しかし熊楠はこれに応じなかった。世界的学者でありながら、学位もなく無位無冠の生涯を貫いた。

「大体帝大あたりの官学者がわしのことをアマチュアーだと云ふが馬鹿な連中だ。わしはアマチュアーではなくて、英国で云ふ文士即ちリテラートだ。文士と云つても小説家を云ふのじやない。つまり独学で叩き上げた学者を呼ぶので、外国では此の連中が大変にもてる」

 熊楠は友人にこう語り、偉大なリテラートとしてダーウインの名前を上げている。たしかに、ダーウインも学位も官位もない在野の人だった。考えてみれば、デカルトもロックもアダム・スミスも、独創的な業績を上げた人はほとんどアマチュアであり、熊楠のいうリテラート(literate)である。

 しかし、無位無冠を貫いたリテラートと言えば聞こえはよいが、実のところ、彼は酒を飲み客人の前でも平気でよだれを垂らして寝てしまう男だった。講演会や研究会に招かれても、すでに泥酔状態で呂律がまわらず、壇上で醜態を演じてばかり。縛られることが大嫌いで、何よりも自由と自然を愛する「山の人」である。世間の規格に自分を会わせようとしないのだから、これでは就職はおぼつかない。

 娘の文枝さんによると、熊楠は剛胆で粗野な風にみえるが、じつはとてもナイーブな人だったという。大酒を飲んで現れるのも、傍若無人なためではなく、その反対だったそうだ。彼女はこう語っている。

「そうではなく、本当に恥ずかしかったのでしょう。初対面の人に会う時はまず、顔を横にそらして手で隠していて、それから少しずつ正面を向いていくほど恥ずかしがり屋でした」

 熊楠は神童と呼ばれて上京したが、予備門で落第し、大学には進学できなかった。そこで、活路をもとめてアメリカ、イギリスに渡ったが、人間関係がうまくいかず、深い傷を負って郷土に帰ってきた。いわば落ちこぼれの人生である。おけに一人息子は精神に病を得て、熊楠の採取した貴重な標本を滅茶苦茶にしたりした。

 熊楠の在野の反骨精神や異常なプライドは、こうした現実に対する怒りと、自らに対するコンプレックスの裏返しでもあるのだろう。東京帝大を出て、中央官庁に就職し、上流の文化人とも広く交流のあった柳田国男は彼にとって別世界の人だった。熊楠は柳田に負けじと、虚勢を張るしかなかったのだろう。

 ともあれ、二人の不仲と断絶は日本における民族学にとって残念なことだった。本来総合されるべきものが、二つに分かれ、そしてやがて衰退していくことになる。熊楠を欠くことで、日本民族学はそのダイナミックな活力を奪われ、創造力さえ奪われたように思われる。


橋本裕 |MAILHomePage

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