橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
ダーウインが死んだ1882年には、南方熊楠はまだ和歌山中学の生徒だった。このころはダーウインの原著はほとんど日本語に訳されていなかった。しかし、「進化論」の考え方は、モースなどの講演を通して、日本の知識人にはかなり浸透していた。
もっとも、日本に普及していたのは、正確に言うと、ダーウインの「進化論」ではなく、その俗流というべきT・ハックスレーやハーバート・スペンサーの「進化論哲学」の方だった。とくにスペンサーの「社会進化説」は当時の日本人に大きな影響をあたえていた。
熊楠が渡米する明治19年には、ダーウインの著書は一冊も日本で刊行されていなかったが、スペンサーの著作はすでに20冊以上も日本語に訳されていた。日本人は「進化論」をダーウインからではなく、スペンサーから学んだといっていよい。
熊楠もスペンサーの数々の著書、「第一原理」「生物学原理」「心理学原理」「社会学原理」「倫理学原理」「進化の哲学」など、ほとんどを読んでいた。そしてこれに魅了され、自分のことを「スペンサーの学徒」とさえ書いた。彼が英国で大英博物館に出した身上書にも、この言葉があるという。
ちなみに私も高校時代にスペンサーの「進化の哲学」を読み、心を揺すられた経験がある。生物の進化、社会の進化、そして人間の精神の進化、これらすべてが「適者生存を原理とする生存競争」から導かれるのは、たしかに分かりやすく、また人生と社会について壮大なスペクタクルを与えてくれる点で魅力的だった。これによって世界のすべてが分かったように思ったものだ。
私は30歳を過ぎて、高校で生物学を教えはじめて、ダーウインの主著「種の起源」を初めてまともに読んだ。そしてスペンサーの進化論が、生物学としても社会学としても、かなりいい加減なイカサマであることを理解した。
ダーウインの主著「種の起源」には「進化evolution」という言葉が出てこない。ダーウインはこの言葉を慎重に避けていて、変化を伴う由来(descent with modification)という用語を使った。じつは「進化」という言葉を最初に使い、流行させたのもスペンサーである。
スペンサーはイギリス社会学の創始者といわれている。スペンサーは、生物界がそうであるように、社会もまた熾烈な生存競争を通し、弱者が淘汰され、適者がサバイバルすることで「進歩」すると考えた。事実、こういう考え方は当時の世界情勢をとてもよく説明していた。
ダーウインの「自然淘汰natural selection」をスペンサーは「最適者生存survival of fittest」と言い換えた。そして、いつか社会ではこうしたスペンサーのわかりやすい用語が広く受け入れられるようになった。その背景には、世界を制覇したヴィクトリア朝時代のイギリス社会の、進歩や進化を最高の価値と認める自信にあふれた雰囲気があった。
「適者生存」をとなえるスペンサーの「進化論」が、日本でも圧倒的な勢力を持ち得たのも、おなじような上昇気分が社会に蔓延していたためだろう。日清、日露戦争を戦い、世界の列強の一員として植民地政策を推し進め、繁栄を築きつつあった富国強兵策をおしすすめる日本にとって、スペンサーの進化論はその絶好の思想的基盤を与えてくれたわけだ。
ダーウインものちに、世間の風潮に流されて、「進化」や「最適者生存」などのスペンサー流の言葉を使うことがあった。しかし、彼は最後までスペンサー流の「雄弁」をよく思っていなかったようだ。ダーウインは「自伝」にこう書いている。
「私は自分の仕事がスペンサーの著作によって益された点があるというふうに意識してはいない。あらゆる問題を扱うに際しての彼の演繹的なやりかたは、私の心のもちかたと全く違ったものであった。彼の結論がわたしを納得させたことは一度もない。(中略)彼の基本的な一般化(ある人たちはその重要さはニュートンの諸法則に匹敵するといった)―私は哲学的な観点ではそれらが大変価値あるものかもしれないといっておく―は私には厳密に科学的な役に立つとは思われないような性質のものである。(中略)いずれにしろ、私には何の役にも立たなかった」
話を南方熊楠にもどそう。若い頃の熊楠は、スペンサーに魅了され、自らを「スペンサーの学徒」などと呼んだことはすでにふれたが、この熱狂もやがて覚めた。熊楠はやがてスペンサーについてはほとんど触れなくなった。
熊野の自然に分け入り、そのゆたかな生物界のありさまを目にしたとき、「生存競争」や「進歩」「進化」という安易な用語や哲学がいかにインチキか実感したためだろう。西欧的進歩主義の欺瞞も、15年におよぶ海外体験で充分分かっていたと思われる。友人に宛てた手紙で、彼はこう書いている。
「なにか進化進化というが、一概に左様にいわれぬ。……退中に進あり、進中に退あり、退は進を含み、進中すでに退の作用あるなり。これが因果じゃ」
熊楠が15年におよぶ外遊のあとにたどりついたのは、自然や社会は、競争ではなく、共生によって成り立っているという東洋的な思想への回帰だといえる。そしてその延長上に、粘菌の研究や、「神社合祀令」に対する彼の献身的な戦いがあったのだろう。彼は柳田国男への書簡のなかでも、こう書いている。
「ハーバート・スペンセルなど、さしも議論を正議するようにみずから信じ人も信ぜし人ながら、太古原始の民と今日の辺夷裔俗を同視して、事あるごとに上古民と今日の未開人を区別せず、勝手次第に引き用いたり。さて、その辺夷裔俗の風俗伝話は開化民の創製を伝えたるもので、いわゆる「礼失われてこれを野に求む」なり。このことの不当なるは独人ボースドールフという人前年論じたり」(平凡社版全集八巻二九八頁)
彼はダーウインのすべての著作を原著で読み、これを自らのものにしていたと思われる。そして、スペンサーに対する批判は口にしたが、熊楠は一度もダーウインを批判しなかった。一元的なスペンサーにくらべて、ダーウインの物の見方ははるかに多元的で深い。熊楠はこうした多元的な見方をのちに「曼陀羅」と呼ぶようになった。スペンサーから離れた熊楠も、ダーウインに対する信頼と畏敬は終生持ち続けたようだ。
(参考サイト) http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/publ/ hasegawa/hasegawa2.html#darwin
|