橋本裕の日記
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2004年08月09日(月) 救われた神の森

熊野古道は、京から熊野三山に続く日本で最も古い街道の1つだ。とくに継桜王子の参道には、樹齢800年を超える杉の神木が立ち並び、枝を那智の滝の方角だけ伸ばしているため一方杉といわれ、古くから信仰の対象となっていた。

 明治44年、継桜王子神社の廃止が決まると、熊楠はすぐに地元に足を運び、一方杉保存の嘆願書を県に提出するよう呼びかける。村人はこれに応じて、総出で植物の調査測量を行なった。そして一方杉の本数と太さ、稀少植物の実態を記した報告書を熊楠に送った。

 この報告を元に熊楠は和歌山県知事宛に嘆願書を送りつける。この中で熊楠はエコロジーという言葉を使った。様々な動植物が相互に関係し合い、共生しているエコロジーの思想を元に、森の保存の重要性を訴えた。神社と鎮守の森は、自然と人間社会が交わる重要な点で、破壊すれば人の暮らし、国土の破壊までつながる。

 しかし、当時はまだ「環境保護」などという言葉も観念もなかった時代である。熊楠や村人の訴えもむなしく、40本あった一方杉は参道入口の9本を残して伐採された。こうして伐られた樹齢数百年になる神木は、たちまち建築材になり、鉄道の枕木になり、燃料になって消費された。

 このころ熊楠が書いた「南方二書」という直筆原稿が今年4月に見つかった。神の森の伐採中止を求める長さ8mに及ぶ2通の意見書には、神社合祀令がいかに国の緑を破壊し、人々の暮らしや心を破壊する悪法かということが、エコロジーの思想を元にくわしく語られている。

<千数百年来、斧を入れざりし森は、相互の関係はなはだ密接錯雑いたし、近ごろエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特殊専門の学問さえ出で来たりおることに御座候>

<神の森の伐採は、一時の金銭を与えるも、益鳥を絶ち、害虫を増やし、やがては大水によって国に永久の物質的な損害を与えるものである>

<愛国心は愛郷心に基づき、愛郷心は、鬱蒼たる樹木により天然の景色を保ち人々の暮らしに慰安を与える神社に大きくよっている。これをなくせば、愛国心、愛郷心も廃れる。神社を合併するをもって、わが帝国の盛衰衰亡に関することなりと信ずる>

 この原稿を受け取った柳田は、私費で製本し、名士に送り、合祀令への反対運動への支援を呼びかけた。財界、学者、ジャーナリストから次々と「南方二書」への賛同の声が寄せられた。そして、和歌山選出の国会議員中村敬次郎は、国政に訴えることを決意した。

 明治45年3月12日、中村議員は帝国議会の委員会で、熊楠が書き上げた演説草稿を読み、森林伐採が国家の基盤を危うくすると主張した。そして、熊楠が撮影した熊野の森の写真を議員に回覧させた。神社合祀を推進してきた議員達は写真をみつめ、写真に添えられた次の言葉に衝撃をうけた。

「合祀のために社蹟荒涼たること、まるで神をさらし者にせしごとし。諸神社みなこの通りなり」

 決議の結果、神社合祀推進の議員全員が「神社合祀令」に反対の意向を示した。これを機に、神社合祀の動きは急速になくなっていった。そして、大正7年3月2日、帝国議会で神社合祀令の廃止が正式に決議された。

 ここに、熊野の森を守れという熊楠と地元の村人の訴えがついに実を結んだわけだ。近代化に突き進んできた政府が、初めて環境保護へ国策を変更した歴史的瞬間だった。こうして、日本の神の森は救われた。

 昭和16年12月29日、熊楠は病床で咲き乱れる大好きな樗の薄紫の花の幻をみて、「医者を呼ぶと花が消えてしまうからこのままにしてくれ」と娘に言い残し、静かに息を引き取った。75年の波瀾万丈の生涯だった。知の巨人は、私たちにこんなすばらしい言葉を残している。

<宇宙万物は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの楽しみとす。これを智と称することかと思う>

 今年の7月、熊野古道が世界遺産へ登録された。私は日本が世界に誇れるものの第一は、この豊かで美しいみどりの自然だと思っている。これを私たちは子孫に残して行かねばならない。経済優先の波が押し寄せるなか、私たちは南方熊楠の思想と生き方に学び、この努力を継続して行かねばならない。

  形見とて何か残さむ春は花
  夏ほととぎす秋は紅葉葉  (良寛)


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