橋本裕の日記
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「神社合祀令」を熊楠が「神狩り」といって激しく抗議し、「神社合祀令の廃止」に向けて捨て身の抵抗していたとき、中央政府にあってこの熊楠の運動を注目していた男がいた。内閣書記官を務めていた柳田国男である。
彼は熊楠が逮捕されたと知って、獄中に彼の著書「石上問答」を差し入れる。熊楠はこれを読み、大いに喜んだ。中央政府に自分の思想や行動を理解してくれる有力な知己が得られれば、どれほど頼もしいことかしれない。以後、二人は文通を続ける。
柳田国男は明治40年頃から自宅で「郷土研究会」という名の会合をもっていた。柳田は全国各地を旅し、研究会で自らの考えを含めた旅の話していた。そして、明治43年には、場所を新渡戸稲造の自宅に移して、「郷土会」という会合をもつようになっていた。
当時「郷土」という言葉はまだ普通に使われていなかった。これを普及させたのが、札幌農学校の内村鑑三や新渡戸稲造だった。内村はすでに明治27年に「地人論」を著し、「郷土と政治は、地理学を出発点にして語られなければならない」と説いた。また、新渡戸は講演会で次のように訴えた。
「詩人テニソンは、小さな一輪の花を取って、比花の研究が出来たら、宇宙万物の事は一切分かると言った。即ち、一葉飛んで天下の秋を知る如く、一村一郷の事を細密に学術的に研究して行かば、国家社会の事は自然と分かる道理である」
「東京近在で地理を教えるにも、富士山とか大井川とか緑の遠いものを教えずに、先ず其村の岩とか、近所の山とかを教え、川なら小川でも可いから、其村を流れて居るものから教えたい。歴史も其通りで、東洋歴史よりも、先ず村の歴史を教えたい」
柳田国男は内村や新渡戸のこうした講演を通した啓蒙活動から大きな影響をうけた。そして「郷土会」をつくり、やがて、官吏の職を辞して、南方熊楠とともに「民族学」の創生へと向かうのだが、それはもう少し後のことである。
柳田は後に熊楠を「日本人の極限を生きた男」だと評したが、柳田を民族学に駆り立てた動機の一つが熊楠との出合いだったのだろう。二人の間には厖大な書簡が残されているが、そこで柳田が民話や民俗、風習について質問し、南方がこれに答えるという内容になっている。そうしたやりとりを通して、柳田は自分の学問の世界を築いていったわけだ。
その過程で、柳田は「神社合祀」の問題にも向き合わなければならなくなった。しかし、この問題に対するスタンスは熊楠とはだいぶん違っている。柳田にとって「神社合祀」の問題は第二義的な問題だった。やはり、学問が第一なのである。そのことをよく示しているのが、柳田から熊楠にあてて書かれた明治44年8月14日の手紙だろう。
<御手紙二および葉書共拝見仕り侯。過日の新聞はそれぞれ有効に配布致し、かつ能う限り輿論を喚起し置き侯。この後も小生及ぶだけは尽力仕るべく侯につき、一半御抛擲何とぞ学問のためその御精力を利用なし下されたく候。
田舎の記者はみな善人ならんも、その他にも先生の孫悟空性を利用し一騒動を起こさせ見て楽しまんとする悪少年ども少なかるまじく侯。もしこれがため、盛年を消耗し給うがごときことあらぱ、その惜愛すべきこと決して神島の霊木の比にあらず侯。
小生も孤憤無告なる点においてすこぶる先生と境涯を同じくしおり候者、決して老成じみたる御忠告をするではなけれど、たまたま貴簡によりて言うべからざる心痛を抱き侯ままかく申し上げ侯。
それにつけても一日も早くかの意見書を御発表なされ、根本的に輿論を改造するの必要有之侯。箇々の問題で修羅を焼し給うはいかにも精力の不経済に侯。そのためには小生の方の聞題は後まわしになりてもよろしく侯。いっそのこと、かの意見書発表に関する一切の事務を小生へお任しなされては如何>
ここでかの御意見書と柳田が書いているのは、昨日引用した「神社合祀に関する意見」であろう。柳田は熊楠の主張に理解を示しながら、そのあまりに過激な行動については終始批判的だった。この手紙でも「精力の不経済」とまで書いて、熊楠をいさめている。
しかし、熊楠は自分のやりかたを押し通そうとする。これに柳田が腹を立てるという場面もあった。少し長くなるが、明治44年11月23日付けの柳田の手紙を引用しよう。
<全体この問題につきては行政法上地方長官に独立の権限あり、われわれはもちろん神社局長でも訓令(貴下のしぱしぱ言わるる)など出し得るものにあらず。そんなことをしておれぱ地方の政治は挙がらず。要はただ間接の感動を与うるにあるのみ。(略)
思うに熊野の天然は、貴下のごとく志美にして策の拙なる豪傑の御蔭にて、これからもなお大いに荒廃することならん。外国学者のプロテストが効を奏するは、欧州のごとく国は分かれて社会は一箇なる聞柄に限るべく、日本にとってはただ国際上の外聞わるきのみにて爪の垢ほどの効もなかるべし。
しかし、小生は必ずしも熊野一地のために声援せしにあらず。全国としていえぱ、まだまだ狂瀾を未倒に防ぎ得、時決して遅きに失せず。一国の問題としては、やがて多少の功を収めて御目にかけ申すべく侯。
神社局長は小生知人なり。神社局長はかの後もあの問題につき心配し、新聞記着に対し特に自分の意向を明言しておるなり。しかし、一々それを利用して県郡の命令を峻拒するの風を生じては、地方は一日も安泰なること龍わず。拙者が和歌山県におりても、あのような乱暴な反対運動に対しては必ず一旦は抑圧を加え申すべし。(略)
とにかく今回の意見の相違につきては、東京のわれわれは決して折衷策や姑息主義を持するがため然るにはあらず侯。今後といえども貴下の御本心だけには同情を表し申すべく、方法は皆だめだと評したく候。草々不一>
こうした齟齬はあったが、二人は連携して「神社合祀法」反対の運動を続ける。そしてついに帝国議会でこれを勝ち取るのだが、この話はまたあした書くことにする。最後の、二人の関係を彷彿とさせるエピソードをひとつ紹介しよう。
柳田国男は大正2年の年末に田辺の熊楠のもとを訪れた。しかし、熊楠は自宅に初対面の柳田を迎えながら、こちらから旅館に伺うといってすぐに帰した。そして旅館へ行っても帳場で酒を飲み、柳田の部屋に通されたときにはすっかり出来上がっていて、両者のただ一度の面会は実に奇妙なものだったという。
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