橋本裕の日記
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| 2004年08月06日(金) |
天皇が愛した生物学者 |
4年ほど前から、インターネットで知り合った仲間を中心に「万葉の旅」をしている。去年は奈良に泊まって、法隆寺を訪れた。一昨年は紀伊の白浜に泊まって、近くの田辺市にある南方熊楠の記念館を訪れた。
紀州の海を見下ろすこんもりとした丘の上にある記念館の館内には、熊楠の愛用した植物採集用具やルーペ、顕微鏡、色とりどりの菌類彩色図や珍しい粘菌標本が展示したあった。それから、熊楠のデスマスク。私はこの展示室で、日本のエコロジー運動の先覚者としての彼の巨大な業績を知った。
南方熊楠(1867〜1941)は和歌山城下に生まれ、白浜に近い田辺市で没した。神童とよばれた彼は上京して大学予備校に通った。そこで夏目漱石や正岡子規と同窓だったという。しかし、彼は落第して、大学進学をあきらめた。彼のあまりに大きな個性が箱庭のような日本の学問の風土にあわなかったのだろう。
そこで日本を離れ、20歳から14年間、独学で植物学の研究をしながら、アメリカ各地や西インド諸島を放浪した。34歳のときイギリスに渡り、大英博物館に入り浸って、万巻の書籍を片っ端から書写した。そして「ネイチャー」など学術雑誌に積極的に投稿し、「日本にミナカタあり」と欧米の学者を驚愕させたという。
明治33年に帰国してからは、和歌山県からほとんど離れなかった。田辺市に構えたまま、そこで彼の生涯のテーマである粘菌の研究を続けた。自然の宝庫である熊野の山中に分け入り、粘菌の新種を数多く発見した。論文や随筆を次々と発表し、在野の博物学者として、その名前を世界にとどろかした。それだけではなく、民族学者としても先覚的な業績を残している。東京にいた柳田国男が生涯の師として仰いだのも熊楠だけだった。
昭和4年6月1日は、熊楠にとって生涯忘れることの出来ない日だ。この日、紀伊の神島に彼は昭和天皇を迎えた。島を案内した後、無位無冠の彼が、御召艦の長門の甲板上で、昭和天皇に白浜の生物について講議した。講義が終わってハプニングが起こった。キャラメルのボール箱に入った動植物の標本を、突然天皇に差し出したのだ。
「南方にはおもしろいことがあったよ。長門(御召艦)に来た折、珍しい田辺附近産の動植物の標本を献上されたがね、普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れてきてね……それでいいじゃないか。」
天皇は後に側近にこう語ったという。そして、昭和37年5月、天皇は33年ぶりに熊楠の故郷南紀白浜へ行幸した。そのとき天皇は、御宿所の屋上から田辺湾の神島を眺め、彼を追悼してこんな歌を詠まれた。
雨にけぶる神島を見て紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ
昭和天皇のこの歌を刻んだ歌碑が熊楠記念館にいたる石段の傍らに立っていた。その歌碑の立つ丘からは、木立の間に大平洋と田辺湾が開けていた。おそらく神島も見えていたのだろうが、私にはよくわからなかった。
昭和天皇は生物学を愛されたが、おそらく心中の師として南方熊楠がいたのだろう。天皇が歌にフルネームの個人名を記すのは異例のことだという。それほど熊楠の業績を評価し、人となりを愛していらしたのだろう。
記念館を訪れることで、こうした彼の華々しい生涯について、私は多くを学んだ。しかし、彼にはもう一つの「華々しい人生」があった。私は彼が「神社合祀令」に命がけで反対した事実の意味を見逃していた。
北さんが雑記帳に連載した「南方熊楠論」を読み、NHKの「そのとき歴史が動いた」を見て、エコロジストとして日本の緑を守った、南方熊楠の熾烈な闘争の実体を知った。明日の日記でこれをしっかり書いてみよう。
(参考サイト) http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm http://homepage1.nifty.com/boddo/kmgs/sira.html
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