橋本裕の日記
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2004年08月04日(水) 天与の権利

 昨日の日記で、私は「基本的人権を侵すことは多数決で決めてはならない」と書いた。また、法も又、基本的人権を尊重して制定されるべきことを主張した。

 こんなことをくだくだしく書いたのも、世の中には「多数決でなんでも決めてよい」「多数決で決まったことには従わねばならない」という考えがはびこっているからだ。これはゆゆしいことである。したがってこれがファシズムの本質だということもあわせて指摘した。

 ところで、それでは何故、私たちは基本的人権を尊重しなければならないのだろうか。ある人は「憲法に書いてあるから」と答えるだろう。私も、昨日の日記でうっかり「憲法に定められた基本的人権を冒すようなことは法で決めていけない」と書いた。

 これは充分な答えとはいえない。その考え方だと、基本的人権を否定するような憲法ができたとき、これに従うしかなくなってしまう。北さんに指摘されて、私はこのミスに気付き、「憲法に定められた」を「そもそも」という文章に置き換えた。正しい答えは、あくまでも「基本的人権を侵すことは法で決めてはならない」ということであり、そして「憲法」もまた例外ではない。

 こうした考え方は、日本ではあまり一般的ではないかもしれない。憲法に保障された基本的人権を敵視する国家主義のひとびとだけではなく、現在の憲法を神聖視する一部の人々も、あるいはこれに抵抗を感じるだろう。しかし、憲法でさえ従わなければならないもっと上位の「規範」が存在する。そしてそれは「基本的人権の尊重」ということだ。

 思想・信条の自由や、身体の自由ということは、憲法に書かれているから尊重すべきことではない。そうではなく、尊重すべき天与の権利であるから、憲法に書かれているのである。こう考えることが正しいわけだ。

 こうした考え方は、キリスト教を母胎とする西洋の人々にはよくわかるだろう。政治や法は宗教の真理からいえば、一段低い世俗上のとりきめに他ならない。こうした理念や信念を重視の傾向は、宗教上の立場を越えて受け継がれている。デカルトやスピノザ、ロックの思想がそうだし、「自由、平等、博愛」を旗印にしたフランス革命やアメリカの独立戦争もその一例だろう。

「We hold these truths to be selfevident that all men are Created equal,that they are endowed by the Creator with certain unalienable Rights, that amon these are Life,Liberty,and the Pursuit of Happiness…」(アメリカの独立宣言)

 人間は等しく何人もこれを侵してはならない基本的な権利をもち、これが自明で普遍的な真理であるという考え方は、こうした西洋的な思想風土の中で生まれた。そして人間が生まれながらして持つこうした権利は「自然権」と呼ばれている。

 歴史の教科書には、オランダのグロティウス(1583〜1645)の名前が上げられている。彼は三十年戦争の惨禍を実見して、主著『戦争と平和の法』(1625)を著し、戦時でも国家間・個人間にも守られるべき正義の法があることを説いた。このため彼は「近代自然法の父」・「国際法の祖」と呼ばれている。この自然法の思想から「基本的人権」という考え方が成熟して行ったわけだ。

 自然法の考え方は、日本人には馴染み薄いかも知れないが、万人がこうした生まれながらの権利を持つということは、たとえば中国の思想家も主張していて、まんざら異質なものではない。だからこそ、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず」という言葉が広く受け入れられたわけだ。私たちは戦争の悲惨を二度と繰り返さないためにも、この「天与の権利」を大切にしたいものだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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