橋本裕の日記
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2004年08月03日(火) 多数決原理が生むファシズム

 世の中には「多数決原理」が民主主義だと考えている人がいる。そして多数決で決めたことには従わなければならないという意見の持ち主がいる。しかし、これは間違っている。多数決の絶対化は民主主義ではない。むしろファシズムだ。

 このことを理解するために、身近な例をあげよう。町内会の総会で「祝日には国旗を掲げることにする」などと決めて、これを各家庭に強要したらどうだろう。これはあきらかにおかしいと誰もが思うのではないか。

 さらに一歩を進めて、町内会ばかりでなく、市会でも県会でも国会でこうしたことを決めるのもおかしいということに気付いてほしい。理屈を言えば、これは思想と信条の自由、身体の自由を保障した憲法に違反することだ。だからもしこれを認めれば、ファシズム(全体主義)になる。

 ナチスドイツは多数決の原理を使って政権をとった。ヒトラーは圧倒的多数の民衆に支持されていた。どうしてそのようなことができたのか。ドイツの人々が、多数決原理を民主主義だと信じ込まされたからだ。

 しかし、いくら多数決でも、他人(ユダヤ人)の基本的人権を蹂躙することは許されない。世の中には多数決で決めてはならないものがある。基本的人権を侵すようなことは多数決で決めてはならないことだ。これは民主主義ではなく、民主主義の否定である。無知と野蛮以外の何者でもない。

 どうようのことが、戦前の日本でも行われた。普通選挙法のもと国政選挙で選ばれた人々が、圧倒的に軍部を支持して、先の侵略戦争が行われたわけだ。その結果、2000万以上ものアジアの人々の人命が失われた。

 法の支配についても、「多数決で成立した法については従うべきだ」という誤解がある。「悪法も法なり」というわけだが、これも間違っている。その理由は憲法に定められた基本的人権を冒すようなことは法で決めていけないからだ。何でも法で決めてよいというわけではない。

 そもそも法はなんのためにあるのか。法は人々を支配するためにあるのではない。人々をいわれのない権力の横暴から守り、人々を自由にするためにあるのだ。このことは近代法が成立したイギリス議会政治の歴史を繙けばわかる。

1215年 マグナ=カルタ(貴族が王権の制限を認めさせる)
1628年 権利の請願(議会が11ケ条からなる国民の基本権を認めさせる)
1679年 人身保護法(人民の不法逮捕を禁止、裁判を受ける権利を保障)
1689年 権利章典(国民の生命、財産の安全、言論の自由を保障)

 繰り返そう。法はなんのためにあるのか。人民の立場に立てば、その答えは明らかだ。それは人々の基本的人権を保障するためにある。法が人々を縛り、命令したりするためにあるというのは、人民を支配する側の論理である。

 民主主義の基本は国民主権ということ、やさしくいえば、人民の立場に立って、人民の手で政策を決め、人民の手で実行するということだ。人々を支配するだけの封建的な「掟」と、個人の自由を保障する民主的な「法」は、その精神において180度違っている。それでは「法」が擁護する「自由」とはそもそも何か。

 自由というのは、「自らに由(よ)る」という意味だ。したがって自由であるためには、自らが確立されていなければならない。「個の確立」ということができていないと、民主主義は衆愚政治に堕落する。自由とは、つまり個の確立でもあるわけだ。

 だから、「個」の自覚を欠いた付和雷同の多数決は民主主義とはいえない。多数決は「個人の自由意志」によるものでなければならないし、また将来においても人々が「自由な個人」であり続けるなめに必要な「基本的人権の尊重」ということがその前提としてなければならない。したがって、民主主義においては少数意見が尊重される。

 現在、学校ではいじめが目立つ。これは人権教育がないがしろにされているからだ。人権を尊重することを教えるのが教師の役目だが、最近ではその教師の人権が公然と脅かされている。東京都教育委員会による「君が代不起立教員」の大量処分がそうだ。

 社会でもいじめや虐待が横行している。リストラが横行し、失業率が増大するなかで毎年3万人以上の自殺者がこの国で大量生産されている。この国を住み良いものにし、世界から戦争をなくそうと思ったら、私たちはもっと「人権」という大切なものに目を向けなければならない。よき市民であるために、私たちはもっと「人権感覚」を磨くべきだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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