橋本裕の日記
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東京都教育委員会は卒業式や入学式のとき、君が代斉唱時に起立しなかったり歌わなかった教員300名余りの処分を発表した。そして、その中の137名に「再発防止研修」を受けさせるのだという。
東京地裁の須藤典明裁判長は「繰り返し同一の研修を受けさせ、非を認めさせるなど公務員個人の内心の自由に踏み込めば、研修として許容範囲を超える。違憲の問題を生じる可能性が皆無とはいえない」としながらも、「現段階では具体的内容が明らかでなく研修後に賠償請求などもできる」として再発防止研修停止申し立てを却下した。「再発防止研修」は8月2日から始まる予定だという。
かってこうした思想改造施設がソ連や中国にあったが、石原知事のひそかな願望は自分も毛沢東やスターリンのような絶対権力者になることらしい。こういう人が都知事をつとめ、しかも都民の支持や人気を得ているというのが日本の現状である。戦前とどれほど違うのだろう。
インド人のビジネスマンであるシャルマさんは、戦前の日本の学校に忠魂碑や国旗掲揚塔があったと聞かされて驚いている。しかし、国旗掲揚塔は現在もあるし、その前で行われた儀式も息を吹き返しつつある。卒業式で一斉に起立し国家を斉唱し、起立しなかったりうたわない教員が「再発防止研修」に送られると聞いたら、シャルマさんはもっと驚くだろう。「喪失の国、日本」から引用しよう。
<インドの学校にはそのようなものは一切ない。国旗などわざわざ掲げずとも、そこがインドという国であることを疑う者は誰一人いない。日本ではつい20年ほど前まで、公の祝日のたびごとにすべての家が、門戸に国旗を掲げたという。そういう風景を私ならずとも外国人が見たら、震え上がってしまいそうである。
国を祝っているつもりでも、外国人の目には日本人以外の人間を拒絶しているように映るからである。何も知らない外国人がその日、日本にやってきたら、クーデターが起きて新しい国が誕生したと勘違いするかもしれない>
エリック・フォッファーは「自由に適さない人々」が他人の自由をも圧殺し、結局息苦しい全体主義国家をつくり、戦争や粛正をもたらしたと書いている。1963年に出版された彼の処女作「波止場日記」から引用しよう。
<自由に適さない人々、自由であってもたいしたことのできぬ人々、そうした人々が権力を渇望するということが重要な点である。・・・もしもヒトラーが才能と真の芸術家の気質を持っていたなら、もしもスターリンが一流の理論家になる能力を持っていたなら、もしもナポレオンが偉大な詩人あるいは哲学者の資質をもっていたなら、彼らは絶対的な権力にすべてを焼きつくすような欲望をいだかなかっただろう。・・・自由という大気の中にあって多くを達成する能力の欠けている人々は権力を渇望する>
自由に適さない人々は、権力者になるか、あるいは権力者の側について権力を行使する人間になろうとする。しかし、彼らの多くを待ち受けているのは、皮肉なことに権力に蹂躙される多くの犠牲者のひとりになる運命である。フォッファーの別の著作「魂の錬金術」からも引用しよう。
<自尊心に支えられているときだけ、個人は精神の均衡をたもちうる。・・・何かの理由で自尊心が得られないとき、自律的な人間は爆発性の高い存在となる。彼は将来性のない自分に背を向け、プライド、つまり自尊心の爆発性代替物の追求に乗り出す>
<自尊心が自身の潜在能力と業績から引き出されるのに対して、プライドはもともと彼らの一部でないものから引き出される。架空の自己、指導者、聖なる大義、集団的な組織や財産に自分自身を一体化させるとき、われわれはプライドを感じる。プライドは不安と不寛容によって特徴づけられ、敏感で妥協を許さない>
<ナショナリストがもつプライドは、他のさまざまなプライドと同様、自尊心の代用品になりうる。ファシズムや共産主義体制下にある民衆が盲目的愛国心を示すのは、彼らが個々の人間として自尊心を得ることができないからである>
彼らはいずれ自分たちも抑圧され、収容所に入れられるとは考えない。そうした可能性を考えるだけの思考力もなく、また肝心の想像力も持たない。自由に適さない人間の多くはそうした人たちである。
自由に適する人間を作り出すことこそ、民主主義教育の目標であり、使命であろう。しかし、日本には自由に適さない人々がまだ大勢いる。そういう人々が、石原知事を支持し、「再発防止研修」を歓迎するのだろう。
(参考文献) 「喪失の国、日本」 M・K・シャルマ 文芸春秋社 「波止場日記」 エリック・ホッファー みすず書房 「魂の錬金術」 エリック・ホッファー 作品社
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