橋本裕の日記
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2004年07月24日(土) 身分による分業制社会

 シャルマさんによると、インドは世界で唯一、それこそスリッパから原爆まで、自前で作る国だという。どうしてそうなったのか。これは周辺国との対立が大きく、他国の部品に依存することはできなかったために、そうなったのだという。

 しかも、こうした自前主義をインドは前近代的なカースト制を温存したまま行ってきた。ここからインド独自のおよそ前近代的な生産システムが生まれることになった。ところが西洋の知識人にとって、インドのこうした遅れた文化が魅力的に映る場合がある。

 未来学者のロベルト・ユングは「21世紀に世界を支配するのは経済指標の最高位を示す国ではなく、機械と人間の共存を解決した国家である」と書いているが、そうした共存を志向する国の筆頭に、インドが考えられることがおおい。しかし、シャルマさんはこうした欧米の知識人のインド理解に懐疑的である。

 現代のインドは世界最大の「民主主義国家」であり、優秀なコンピューター技術者集団を要する世界最大の「ハイテク国家」として世界から注目を浴びている。しかし、社会の根底にはいまだに古いカースト制が残っている。現代インドにハイテク機器を導入するためには、意識の社会的生産基盤が必要である。それがないまま導入すれば、廃墟とお荷物が増えるだけだと、シャルマさんは考えている。

 私たち文明の最先端を行く先進国の人々は、ノスタルジーとして古いものに憧れることが多い。そしてその「古い世界」の代表がインドなわけだ。歴史学者のアーノルド・トインビーは「西洋文明を救いうる唯一の道は瞑想である」と書いているが、はたして「瞑想」で社会が救われるか疑問である。少なくともインド人のシャルマさんはそうは考えない。

 インドは現在、社会全体で身分制による巨大な工場制手工業国を形成している。そしてこの生産ラインは、すべてのカーストが千年前とおなじ意識でかかわることで動かされている。インドの清掃係は清掃しかしないし、門番は門や部屋の開け閉めしかしない。もし、清掃人が休めば、部屋は汚れたままで、門番が休めば、部屋にも入れないことになるわけだ。これは少し誇張した言い方だが、インドは基本的にこうした身分による分業で成り立っている社会だといえる。

 こうした社会と対極にあるのが、日本社会だろう。日本では社長が門を開けたり、場合によっては掃除をしたりする。社員と同じ食堂で食事をし、ときには部下にお茶を運んできたりする。もしこうしたことをインドですればどういうことになるか。その社長は奴隷階級だと見なされ、バカにされるだけである。

 シャルマさんはこうした身分的社会で、しかも最高位のカーストとして生きてきたわけだ。そうした人がその対極の平等社会である日本にやってきたらどういうことになるか。その日本滞在記が多くの失敗談で埋め尽くされるであろうことは想像できる。

 たとえばこんなことがあった。日本人の友人の家庭に招待されたとき、玄関先で靴を脱がなければならない。脱いだ靴をシャルマさんは爪先で揃えた。そのとき、友人は「日本ではそれは不作法ということになります」と忠告し、手で揃えるようにアドバイスした。

 ところがシャルマさんはこれに強い心理的抵抗を覚えた。インドであれば、自分の靴に手で触れることはない。それを専門の仕事にする人々がいる。身をかがめ、手で靴に触れることは、下層階級にしか許されない行為だからだ。シャルマさんにとって、靴を自分の手で揃えるということでさえ、乗り越えなければならない異文化の壁だったわけだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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