橋本裕の日記
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2004年07月21日(水) 日本への憧れと幻滅

 インドではセールス部門のビジネスマンは、おもに最上位カーストのバラモンによって構成されているという。その理由は、バラモンであればどの家の敷居もまたぐことができる。どの会社の社長室にも入ることができ、どのような人物にも会うことができるからだという。M・K・シャルマさんはこう書いている。

<身分制が廃止されて久しいといっても、保守的な感覚を持った資産家や実業家が多く、大手企業の社主には元マハーラージャも多い。こういう人たちの家や役員室に、優秀だが低カーストのビジネスマンを送りつけることはリスクが大きすぎる。相手のなかには、侮辱に耐えかねて一切を破談にする者も出てくる>(「喪失の国、ニッポン」以下の引用も同じ)

 こうした風土をもつインドに、日本企業の多くは、大した肩書きをもたない若手を送り込み、強気のビジネスをはじめる。しかし、これではうまくいくはずがない。日本から派遣されたビジネスマンは壁にぶちあたり、大きなストレスを抱え込む。

<彼らは、どうすればインド人の目に自分が上位カーストと映るのかわからなかったので、相手のカーストに対する配慮のないまま、ただやみくもに罵倒することで己の優位を示そうとしたのである。これはインド人たちの目に、庭師も掃除夫もタイピストもビジネスマンもいっしょと見なす無理解な外国人に映った>

 デリーやマドラスのインド人ビジネスマンたちが、彼らから学んだ日本語は、「こんにちは」や「ありがとう」ではなく、「バカヤロー」だったという。日本人ビジネスマンはなぜ欧米人のように相手国の文化を研究しないままやってくるのか。シャルマさんには信じられないことだという。

 シャルマさんも、多くのインド人ビジネスマンがそうであるように、バラモンのカーストである。1955年にラージャスターン州ウダイプルで生まれた。家はとても貧しかったが、優秀な彼は奨学金を受けて、ラージャンスター大学、デリー大学に学んだ。ニューデリーの市場調査会社に就職し、調査のために1992年に来日した。

 来日が決まったとき、親日家であった彼の父は大変喜んだという。父親は第二次大戦中、チャンドラ・ボーズが率いるインド国民軍に参加し、日本軍とともに大東亜共栄圏の実現を目差してインパール作戦を戦ったことがある。そんな父親にとって、日本は憧れの国だったという。父親の影響で、シャルマさんも日本に憧れていたという。そして、三島由紀夫の「金閣寺」の英訳を読んだりしている。

<級友たちがソビエトやイギリスやアメリカに憧れていたとき、私は極東の国日本に憧れていた。どの国よりも礼節を重んじ、ビヤーナ、つまり師や年長者を尊ぶ国。クシャトリア(武士)が大勢いて、仏陀を信奉し、緑にあふれた島国。戦後人間宣言はしたが、つい十数年前まで生き神が支配してきた国。そして世界的な工業国。・・・・が、父にいわせると日本はもっとすぐれた文化をもつ国だという>

 1年8ヶ月の日本滞在中に、シャルマさんは突然父親の訃報に接する。そして、父親は「自分の遺灰を6千キロはなれた日本に撒けと遺言していた。シャルマさんはそれを隅田川に撒くことにした。隅田川のイメージがガンジス川の支流のヤムナー川に似ていたからだという。

<私は父に、父がイメージしていた日本と日本人像とが、いまや殆ど滅びてしまったことを話す機会がなかったことを幸いに思う。しかし、父が亡くなったいま、ここで父に対して多少の報告をしておかなければならない>

 父親が死んだ後、彼は会社を辞めて、インドに帰る。彼はニューデリーにも故郷にも戻らず、砂漠の果ての古い町に移り住んで、「喪失の国、日本」を書いた。おそらく、彼はこの書を今はない父親への報告として書いたのではないかと思う。この書は現代日本に対してかなり辛辣である。しかしその辛口の語りの中に、日本に対する愛情があふれている。彼の批評は、この愛情の裏返しだということがよくわかる。


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