橋本裕の日記
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私が小学生の頃、ときどき友達と宝探しの遊びをしたものだ。それぞれが自分の大切なものをどこかに隠す。そして手がかりになるものも同時において、おたがいにそれを見つけだすゲームだ。今の子どもがテレビゲームで味わうようなときめきを、私たちもこうして街の中で楽しんだ。
こうした面倒くさいプロセスを抜きにして、お互いが宝物を交換すれば手っ取り早いのだが、それではあまり宝物のありがたみがない。体を使い、頭を使って「宝物」を手に入れたときの喜びは大きいし、たとえその宝物がビー玉一個であっても、その発見までのプロセスが充実していればもうそれだけで大満足である。
ときどき、人生も「宝さがしのゲーム」かもしれないと思う。「人生の宝」とはなにか。それは人によって違うだろうが、人々は結局自分の望んだものを、この人生という舞台でさがしまわっているのかもしれない。
経済学者の永谷敬三さんによると、学者が競って論文を書くのも、宝探しのゲームに似ているという。アメリカの経済関係の論文はたいてい共著というスタイルをとるが、それはチームを組んだ方が効率がよいからだ。
永谷さんはこのことについて、「競争的個人主義の国民が、能率向上のために、集団主義に転換したのである」と書いている。個人の競争を重んじ、自由で公平な市場の実現を主唱する新古典派経済学を主唱する人々が実践しているのが自分たちの理論と裏腹な「協調主義」だというのがちょっと面白い。そこで今日は「宝探しのゲーム」における「競争」と「協調」という二つの戦術について書いてみよう。
いま、ある広大な土地のどこかに宝物が埋められているとしよう。10人の人々がそれぞれ入場券を払い、1日かけてこの宝探しをすることになった。さて、ここでどのような方法で宝探しをすれば、一番能率良く宝探しができるかという問題である。
競争システムだと、10人がそれぞれ別々に宝探しをして、もし見つければ、見つけた人がその宝ものを独占することができる。これに対して、協調システムだと、土地を10の区画に割り、10人がそれぞれの区画の中で宝探しをする。そして見つけた宝は等しく10人でわけあうことになる。
どちらが効果的に宝が見つけられるかといえば、「協調システム」である。このシステムであればほぼ確実に宝物が見つかるが、「競争システム」ではそうはいかない。土地を掘っても、相手にそれを悟られないように修復するので、無駄な重複が多くなり、結局大部分の土地が手つかずでのこされるからだ。
しかし、「協調システム」にも問題がないわけではない。それは「協調システム」だと、一人当たりの分け前が少なくなり、場合によってはインセンティティブが低下するからだ。どうせ誰かが見つけてくれるだろうとサボル人間も出てくるかもしれない。アングロ・サクソン系の学者はとくにこの点を問題にする。
<元来競争システムで育った人々は、協調による利益、無秩序な競争が生み出すロスを認めたがらないし、思考がすぐにサボる利益の方に向く習性がある。彼らが非協力ゲームの研究に熱を入れるわけもここにある。
協調はメンバー間の相互信頼を基礎とするわけで、計算によって協調したり裏切ったりというのではチームは成り立たない。協調を目的としたネットワークづくりの問題となると、彼我の文化の差が大きいことを今さらながら痛感せざるをえない>(なかなかの国ニッポン)
日本が経済的に成功したのは、「協調システム」がうまく働いたからだろう。しかし、文化によっては、これがうまく機能しない場合もある。日本でも将来にわたって「協調システム」が機能し続けるかどうかはわからない。
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