橋本裕の日記
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2004年07月04日(日) ポリツエルのリンゴ

 一昨日の朝食の時、私は妻に訊いてみた。
「ヘーゲルがね、『私たちが歴史から学んだことは、何々である』と書いているんだ。この『何々』にあたる文章をあててごらん」
「そうね。歴史は繰り返す、ということかしら」
「ヘーゲルがそんなありきたりなことを言うかな」

 実はこのヘーゲルの言葉を、私は一週間ほど前に食卓で口にしていた。妻はそのとき頷いていたのに、もうすっかり忘れているようだ。ヘーゲルの言葉は次の通りだ。

「我々が歴史から学んだことは、我々が歴史から何も学ばないということだ」

 残念ながら、私はこれがヘーゲルのどの著作の言葉かわからない。だからほんとうにヘーゲルの言葉かどうか裏がとれているわけではないのだが、いかにも弁証法の大家らしい言葉ではないだろうか。

 この言葉には論理的矛盾が含まれている。しかし、この文章が生きているのは、まさにその矛盾があるからだ。矛盾には既存の秩序を打ち砕くパワーがある。ヘーゲルは「小論理学」(エンチクロペディー)のなかで、「世界を動かすものは矛盾である」と書いている。

 人間はさまざまなシステムのなかで、そのシステムに支配されて生きている。そして普段はそのシステムの存在すら気がつかないものだ。たとえば、私たち日本人は「日本語」というシステムの中で物を考えたり、ものを感じたりしている。しかし、ふだんはこのことに無自覚であり、そのシステムの外にでることはない。

 しかし、何かの機会に、そのシステムのなかに「自己矛盾」が見つかり、そうしたシステムの自己完結性が破られることがある。システムが運動を始めるのはここからだ。こうした様々な思想や体制が作り出され、歴史が生み出されてきた。ヘーゲルは歴史をこのように矛盾を原動力とした体制変革の運動と見なしたわけだ。

 ここまで書いてきて、昔読んだことのあるフランスの哲学者ジョルジュ・ポリツエルの「哲学入門」の文章を思い出した。ポリツエルはリンゴを例にとって、弁証法をこんなふうに説明する。

<リンゴは昔からりんごであったわけではなく、その歴史を持っている。リンゴはかって花の一部であり、木の一部であった。そして木も、その前には種子から発展したものである。リンゴはまたいつまでも木にとどまることはないだろう。地に落ちれば腐って、分解して、もし万事がうまくいけば芽を、つぎには木をうむであろう。リンゴは昔からいまあるとおりのものではないし、いつまでいまあるままにとどまってはいない。なぜリンゴはかわるのか。それはリンゴの内にある内的な理由によってである>

 リンゴに限らず、あらゆるものが歴史を持っている。しかしすべてにものが、リンゴと同様の歴史を持っているとはかぎらない。例えば身近な例で言えば、鉛筆の場合、その歴史はリンゴのように自己の内部の力によるものではない。木が切られ、削られ、鉛筆になるのは、人間が外部から働きかけるからである。これはリンゴのような内部から生まれる発展的な変化ではなく、外部から強制された機械的変化である。

 さらに、全てのリンゴが木になり、花を咲かせ、再びリンゴになるわけでもない。その途中で、たとえば芽を出し、小さな木になったところで、人間によって伐採されるかも知れない。そのばあい、リンゴの命はそこで奪われる。しかし、こうした不幸がなければ、リンゴは生き延びて、自らの歴史を作り続けるだろう。再び、ポリツエルの言葉を引こう。

<リンゴはしかしただリンゴの木だけの果実ではない。リンゴはその歴史において、自然界と生命全体の果実であり、この運動の中でリンゴは生き、そのいのちは受け継がれるのである>

 人間も又、リンゴと同様に、自然界の相互の恵みのもと、自らの力で発展する弁証法的な存在だ。鉛筆のように、何者かによって作られ、何者かの道具として存在する、世界を構成する一つの部品ではない。しかし、鉛筆のような道具存在としてしか人間を理解しない思想や体制が存在することも事実だ。鉛筆のように、他人の道具として生きるか、自己の内部の必然によって「自由」に生きるか、人間にとってどちらが幸せな生き方かあきらかだろう。

<我々が学習において、闘争生活または個人生活においてつとめなければならないことは、事物を静止した不動の状態においてではなく、その運動において、その変化において、その矛盾において、その歴史的な意義において見ることであり、事物を一面的なやり方ではなく、あらゆる面において見ることである>

  ポリツエルのこれらの文章は、ナチス占領下で、これに戦う人のために講義されたものだ。彼は捕らえられて、拷問されたが、ついに一言も口を割らずに、1940年10月13日、モン・バレリアンで銃殺された。私は若い頃に彼の本に出会って感激したものだ。そして、彼の言葉はいまも私の中で「ポリツエルのリンゴ」として香しく残っている。


橋本裕 |MAILHomePage

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