橋本裕の日記
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2004年07月03日(土) 罪を憎み、人を憎まず

「浅原彰晃は救われるのか」という問いかけに、歎異抄の親鸞ならば、「悪人だからといって救われないことはない。むしろ、悪人だからこそ、仏は慈悲心を起こし、お救いになるのだ」と答えるだろう。「教行信証」の親鸞のように、様々な経典を持ち出して、いろいろと回りくどい条件を付けたりしないはずである。

 歎異抄の親鸞によれば、人は心が善いから善行をするのではない。その人の業縁がよいから善行をする。ただそれだけのことだ。だから浅原彰晃が悪人になったのも、彼の悪業のゆえである。仏の目から見れば、彼をあわれに思うことはあっても、憎んだり、罰を与えようなどとは思わないはずだ。

 私はどんな極悪人でも、その人の生い立ちから現在までをつぶさに観察すれば、その人を憎むことはできなくなると思っている。むしろ哀れに思い、彼を悪に追いやった先天的・後天的な様々な条件にたいして、さまざまな問題意識を持つはずだ。

 たしかにこの世で彼が行った悪行について、彼は償いをしなければならない。それが俗世の掟である。浅原彰晃の場合は死刑が相当だろう。しかし、来世においてまで、その償いをさせようというのはどうだろう。たとえ来世があるとしても、宗教家ならば、そこまで要求しないはずだ。

 私自身は来世を信じていない、したがって、浅原彰晃の来世の運命には何も関心はない。死ねば私たちは等しく大自然に還っていく。それでおしまいであり、私たちがこの地上で行った行為など、たとえそれが善いものであるにせよ、悪いものであるにせよ、それだけのものではないか。

 救いとは何か。それは死ねば無に帰るということである。「歎異抄」をつきつめれば、そういうことになる。しかし、それでは困る人が大勢いる。宗教を利用して、人々を「善人」にしておこうと考える人たちだ。彼らには「歎異抄」は異端であり、「教行信証」は信頼に値する聖典ということになる。

 誤解されるといけないので書いておくが、私は浅原彰晃を無罪放免にせよと言っているのではない。彼は現世の法律によって厳しく裁かれなければならない。彼によって殺戮された人々や、その遺族の無念を考えればこれは当然である。社会秩序の維持を考えても、犯罪行為を許してはいけない。

 しかし、犯罪を処罰するだけでことが足りるわけではない。彼を犯罪に至らしめた本当の原因は何か。戦争や殺戮の本当の原因は何か。そのことをしっかり考えるためにの手がかりを、「歎異抄」はあたえてくれる。

「浅原彰晃よ。お前の犯した罪は重い。お前はその償いをしなければならない。しかし、私はなぜお前がそのような犯罪を犯すにいたったのかつぶさに知っている。お前がどのような屈辱のなかで生きてきたのか。人に言えない孤独や淋しさを糧に、お前の心がどのようにして憎悪を育み、慢心を太らせていったのか。しかし、死はお前からそのすべてを取り除くだろう」

 以前、永山則夫という死刑囚がいた。彼の書いた「無知の涙」という本を読んだことがある。そして、彼の半生を再現した映画も見た。東北の貧しい農村に生まれた彼が、集団就職で上京し、そして、大都会で生きていくうちに、彼が何故、殺人を犯すにいたったか、その過程がドキュメンタリー風に描かれていた。

 私はこの映画を見ながら、「罪を憎み、人を憎まず」とはこのことかと、納得したものだ。 同時に、「歎異抄」の「いわんや悪人をや」という親鸞の言葉も理解した。全てを知る仏であればこそ、現世で「悪人」として生きた彼を、せめて来世では救ってやりたいと思うのではないだろうか。

 山折哲雄さんは、サリン事件に衝撃をうけて、「歎異抄」にたいする疑問を深め、これを否定するために「教行信証」へと向かった。私はこうした方向性が正しいとは思わない。「歎異抄」が提起した問題を、もっと正面から受け止めるべきではないか。そこに仕掛けられている逆説の中に、この世界をしあわせにする本当の手がかりがあるからだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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